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- 作成者:Mizuno Shouhei (水野庄平)
- カテゴリー: 光と影
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1,美麗姫と醜悪女 (涅槃経)
昔ある家に極めて美しい女性が、訪ねてきた。 女性が言った。 「私は功徳天です。私を供養すれば、この家は必ず幸せになりますよ」。 家の主人は大いに喜び「どうか我が家に留まりたまえ」と迎え入れた。 女性が来て以来、家は財が増え喜ばしいことが続き、家中は笑いが絶えなかった。 しばらくすると下品で醜い女がやってきた。 「私の名前は黒闇といいます。 災いをもたらすものだが、この家で世話になるよ」という。 主人は怒って刀を振り上げ「出ていけ!」と追い出した。 すると功徳天が「これは私の妹です。 私たち姉妹は常に離れることはないのです。 妹を追いだすなら、私も去らねばなりません」と出ていってしまった。 このことから主人は大切なことを学び、その後は堅実な日々を送った。 姉妹は次いで別の貧しい家を訪ねた。 そこでは主人がいたく喜んで、姉と妹の二人共に迎え入れた。 その家は果たして大富豪となり、一族は権勢を得てほしいものは何でも手に入れることが出来た。 ところが、身内内でトラブルが増え、家族に原因不明の病で倒れるものが出た。 彼らは富裕だが不幸が続いた。 ▲
付記:科学の時代こそ、昔のお話を大事にしたい。 この世は必ず裏があり逆があるので、調子よいほど要注意です。 科学技術はこの世を豊かで便利にしてくれる功徳天。 環境破壊・伝統破壊は黒闇天。 人間は利口なようでポカがあります。
2,アメリカ先住民の伝承
①静かに生きよ。 ②先祖と伝統を誇りに思へ。 ③謙虚であれ。 ④天地の恵みに畏敬の念を持ち、大切なものを少しだけ備えよ。 ⑤母なる大地に背かぬように質素であれ。 ⑥生物と平等に生きよ。▲
付記:文明の大いなる恩恵を受け尽くしている中に、失ってしまったのがこの伝承の心。 アメリカ先住民の風貌は日本人とおなじです。
3,光と影(平成9・新聞)
「エジソンが電気を発明して、闇に光をもたらした。 ところがこれによってエネルギー消費を促し、地球を痛めている。
ノーベルがダイナマイトを完成させ、ニトログリセリンの爆発力のコントロールの技術を得た。 これによって人類の開発を大きくした。 一方で殺戮の悲劇がどれほど引き起こされたか計り知れない。 医学・医薬の発展が長寿社会をもたらした。 しかし若い世代を圧迫している。 ‥‥後略‥‥ 」 ▲
付記:この世はよかれと思っても、どこかに問題があったりするので油断できません。
4,知者
「天才は創造し、秀才は理解する。 凡人は共感する。ネット」。 科学者のお話は、私の頭でもなるほどというのもありますが、中には何やそれというのもあります。 難しい本は読めないので、情報源はほぼ新聞ですが、最近はネットでも面白いものがあります。 丸写しは盗用になるようですが、情報の共有ができます。 伝道の基本はコピーと合点しています。 (仏弟子の場合は独自の見解は許されない。しかし愚者が扱うと私的な解釈が入ってしまいます。 慚愧。)
マックス・ウェーバー(思想家・19c・ドイツ)
「政治の世界では、善意なるものが必ずしも善なる結果をもたらさない。 故に経験と熟慮がいるのだ。」 ▲
経済学者オイゲン・ベーラー(スイス)
「科学的方法が全て正しいということは証明できない。 科学によって何もかも解明されるという保証がまるでないのだ。 証明できないものを「科学は正しい」と断ずるのは一種の信仰である。」 (東京女子医大、千谷七郎教授の話から、昭和54年サンケイ)
ダーウィン(生物学)
「科学では解明できないなどと断言するのは、無知な人々であろう。 確信というものは知識のない処から生まれることが多い」。▲
付記:ダーウィンは19世紀当時のキリスト教信仰絶大の時代に、彼の「進化論」は激しく攻撃されたが、彼は自説を曲げなかった。 ダーウィンは黒人差別を反対した勇気のある人という。
付記:科学者は情操が豊かであってほしい。
デューイ
デューイ(1859~1952・アメリカ)哲学者。教育学。精神の発達について注目した。
「理系は道具である。 理論は概ね、❝仮設❞と見ればよい。」
付記:❝仮設❞ということは、第一義ではないということ。 「自心内に第一根本智あり」という仏教の立場からすれば、納得できます。 健康で快適な生活は、理系の道具で可能です。 しかし人間の根源的な苦悩悲哀に対しては、科学には限界があるとです。
エーリッヒフロム
エーリッヒフロム(1900~1980・ドイツ)精神分析・社会心理学者。
「東洋の宗教が、西洋よりも合理的な考えになじむことが出来る」。
付記:昭和の時代、鈴木大拙博士(禅哲学者)の翻訳本が盛んに欧米で読まれた。
フィリップ教授(アメリカ・哲学者)
「西洋の人間は少なくとも四百年、精神的飢渇に苦しんできたが、それは西洋固有の宗教的資源では癒されず、その飢渇はいよいよ烈しくなった。」 「人類が従来の割拠状態から一つの世界へと進行しつつあるとき、人類の宗教もまた地方性を脱却して一つの世界の宗教にならねばならない。」 「禅以外には真の世界的宗教はない。」
「禅以外の世界の宗教は、どれも時と場所と地方性を帯びている。 現代人の眼は無限をながめ、常に拡大しつつある宇宙を見ているのであるから、現代の宗教もその中心を至る処に有していなければならない。」
付記:これは大森曹玄老師の文から。(「坐禅のすすめ」禅文化研究所発行)。
5,「ミミズの話」
A・スチュワート著(アメリカ) (サンケイ・平成22) 評者・池内了「ダーウィンは、ミミズには何百年かけて地質の変化をもたらす能力があることに気づき、ミミズこそが土壌を改良する立役者だと、ダーウィンは注目した。
ダーウィン以後ミミズ研究が活発化した。 ミミズは粗い岩石の粒子を砕いて植物のカスと混ぜ、分泌物を加えた後に出す糞こそが、肥沃土を形成する基となる。 ただ黙々と土を掘るだけのように見えるミミズだけれど、私たちはその偉大な能力に感謝する必要がありそうだ。」 ▲
付記:著者スチュワートの他の著書「人はなぜ、こんなにも庭仕事で幸せに付記:なれるのか」。
6,本川達雄・東工大教授 (生物学・平成6年)
「いま自然科学の主流は物理学ですが、それだと解答は一つしかないという発想法になってしまいがちである。 これでは現実の複雑さをすくい取ることは出来ないと思う。 世の中を単純な法則に収斂するのでなく、存在一つ一つに意味を認め、多様性を尊重する生物学的な見方が、必要ではないかと思う。」
「科学というのははあくまで仮学であり、絶対の真理というのは手に入れることはできない。 科学は知的なエンターテインメントぐらいに思った方がいいと思います。」▲
付記:生物の世界は弱肉強食という非情なものですが、それでも絶妙のバランスで、多様性を実現しています。 弱い動物が文句も言わず生きています。 これが人間社会となると知性があるので多様性は難しい。
付記:本川教授は「科学は仮学であり、真理は手に入らない」といわれる。 宗教者ならともかくも、学者さんの言葉としては驚きです。
6,仏教
「縁起・縁滅一切は縁によって仮に生じ、縁によって仮に滅す。」
博山和尚
「世界も身心もこれ仮縁なることを、看破せよ。」
ブッダ
「人は雨のように金が降っても、満足できない。 抑制と智慧によって満足が得られる」。
7,「文系学部の廃止は疑問」
平成28・論壇(時評)評論家・稲垣真澄(サンケイ新聞) 時の変化には素早く対応しなければならないが、百年先を見て身じろぎしないという人物も必要である。‥‥。 人づくりは時間がかかる。 徳川三百年の厚みが明治維新という激変にもペシャンコにならぬ人間を生んだ。 「文部科学省の文系学部の廃止や転換を求める」(国立大学文系不要論)について、これは効率重視のビジネス思考に基ずくものだ。 安易な「人文系学部の廃止」を憂う声は多い。 佐和隆光「理系の知を生かすも殺すも、深い文系知に他ならない。」 エドワード・ビッカーズ「視野の狭い理系の合理主義は、全体主義にきわめて利用されやすい。 世界的趨勢として人文社会学の危機だ。」▲
付記:「深い文系の知が、理系の知を生かす」というのはなるほどです。 ニュースなどで派手に取り上げられるのは、新発見や新発明、宇宙ロケットの成功とか、どうしても理系になる。 優秀な若い世代が、文系より理系に目がいくのも無理もない?
8,利根川進(ノーベル医学賞受賞)(読売新聞・1998)
「人間の機能は、大まかにいって二つある。 一つが肉体の機能。 もう一つが心の機能だ。 17世紀のデカルトは『心の現象は自然科学で研究しても説明できない』といったが、私はそうは思わない。 心の機能も自然科学で説明できるのではないか。」 「21世紀には人間の心は解明されるでしょう。 そうなると文学とか哲学の分野はなくなるだろう。 宗教の影響は長く残るかもしれないが‥。 哲学とか思想とかは答えがいくつもあり、真実はいつもハッキリしない。 その点、科学は答えが一つだ。 だから私は科学的解明を信じている」。▲
付記:典型的な理系の話です。 「心が解明されれば文学や哲学の分野はなくなる」とか「科学は答えが一つだ。 だから科学的解明を信じる」という発言は明快ですが、単純で分かりやすい話というのはうさん臭いこともある。
9,佐倉統東大助教授(平成19年・読売新聞)
「昔、人類は直観的に知見を得た。 この直観的な理解はとかく人間中心の、人間に都合のよいものになりがちである。 科学的知識は、しばしば人間の直観に反する結論を導き出した。 19世紀、ダーウィンの進化論は攻撃されたが、結局受け入れられた。 地動説や進化論等によって、世界は必ずしも人間中心ではないということになった。 これが科学の強みである。
しかし科学の弱みということも理解がいる。 科学的方法論という客観的な話になるとき、どうしても個々の人間が視点から欠落する。 たとえば事故の確率が一億分の一であろうと、事故に遭遇した人は現実である。 客観的世界と主観のギャップを、どう理解していくのか、古くて新しい課題である。」▲
付記:科学的所見によって世界は人間中心ではないという話ですが、科学の発展により世界はますます人間さま中心です。 ますます義理と人情が大切です。
10,コーヒー(読売新聞・平成6)
末期がん患者の痛みを聞いたある看護師が、鎮痛剤の代わりに一杯のコーヒーをすすめ、その患者から寛いで話を聞いた。 すると翌日から患者の痛みの訴えが少なくなり、鎮痛剤の使用が激減した。 医師・山崎章郎著「病院で死ぬということ」
主婦の友社 ▲
付記:デビイ夫人「人には気付く人と、気づかない人がいる」。
11,「無痛化」ゆえの心の空洞化(平成16・読売新聞)
森岡正博教授(大阪府立大・生命学) 「そもそも文明の進歩とは苦しみや辛いことに、なるべく出会わないで済むよ
うな社会を作り上げることだった。 かくして今や私たちは、あふれんばかりの便利なものに囲まれている。 ものに囲まれ、気持ちのよいことをたくさん経験出来るようになったのに、心の底にはぽっかりと空洞がある。 これこそが現代人の心象風景だと私は思う。 何不自由なく育った若い人らが、ある日ふとこの心の空洞に気づく。 しかし考え始めると不安になるので、そこから目をそらす。 幸いこの社会には様々な娯楽があり、テレビ・カラオケ・グルメや恋愛遊戯などで自分を忘れることができる。 そうやって辛いことから逃げる仕組みが、社会の津々浦々にまで張りめぐらされている文明のことを、私は「無痛文明」と呼んでいる。 実は無痛文明は私たちを眠らせて、大事な問題を考えさせないようにするのである。 人々は今生きているという実感を少しずつ失い、「深い喜び」を感じる力が奪われてしまう。 気持ちいいのだけれど「よろこび」がないという状態になるのである。
もし仮に苦しみから逃げるのをやめ、苦しみを引き受けたとしょう。 その後に思いもかけぬ『新しい自分』が生まれ出ることがある。 このときに訪れる回生の深い喜びを、私たちは忘れてしまっているのだ。 無痛文明は私たちがかって感じたことのある『ああ、私はいま生きている』という経験を消そうとしている。 ▲
付記:「無痛文明は実は私たちを眠らせて大事な問題を考えさせないようにする」という深刻な指摘です。 かっては「若いときは、苦労は買ってでもせよ」とか「石の上にも三年。 まず三年は我慢せよ」とか説教しました。 しかし今の成功者は「昭和の常識は捨てろ」という。 そのあげく心の空洞が出来た? 心の問題は複雑です。 ムダなようでムダでないのもあります。
12,斎藤一人(ネット・令和6)
「人間は魂を磨くために生まれてきたのである。 苦しみが人間を磨く。 苦しみがないというのは命ではない。 また心ではない。 心は苦しみや痛みがあって強くなり、大切なことに気づいていくのだ。」▲
付記:この言葉はネットにありました。 簡にして潔。
艱難汝を玉にす
13,人間万事塞翁が馬
昔、中国北方の国に占術に通じる老翁がいた。 あるとき、翁の大事な馬が逃げ出して行方不明になった。 村人らが慰めたが、翁はあまり気にする様子もなかった。 数カ月してその馬が、良馬をつれて帰ってきた。 人々は財が増えたと喜びの声をかけた。 翁は「いやどうも」とそんなにうれしそうでもない。 やがて乗馬好きの息子が、馬から落ちて足の骨を折ってしまった。 人々は慰めたが、翁はあわてることもなかった。 その後、一年ほどして胡人が攻めてきた。 村の若者たちは弓を引いて戦い、若者の多くが死んだ。 翁の息子は足が不自由なために、駆り出されず無事であった。 「中国故事物語・河出書房新社」▲
付記:目の前の状況だけで軽々に吉凶是非の判断をするな、という中国の有名なお話です。 もうかる話やうまい話には気を付けよう。
14,曾野綾子氏(平成27・サンケイ新聞)
大佛次郎「帰郷」より。 終戦となり、無事に帰国した一兵士の思いはこうである。「この戦争でひどい体験をして腹が立つが、しかしこうして帰ってきて命のあることは、たまらなくうれしい。 夜、ふとんに寝転がっていると一人でに楽しくなってくる。 今おれは日本に帰っているぞ。 敵はもういないぞ。 突然の攻撃もないのだ。 家に屋根があるから雨がふっても大丈夫だぞ。・・」 曾野氏いわく「今の我々は命があることに感謝もなく、謙虚さもなくなってしまった。 ふだんの暮らしの中に幸せを見つける力を失っているのだ。」
15,死後の世界について
仏教学者の渡辺照宏氏(1907~1977)によると、死後の世界を信じる人の方が、信じない人よりはるかに多いそうです。 渡辺氏いわく「死後を信じることをおすすめする。 信じて失うものは何もないのですから」。 昔は難しいことを知らなくても、因果応報が判断基準でした。 現代は情報が多すぎて道義が薄れました。 いじめとか不倫とかも必ずバレる。 たとえ現世でバレなくても来世以後に必ず痛い目にあう。 人生訓は簡単ですが、人間は賢いようでも欲にくらんで失敗します。
16,評論家山本七平
「日本の家には、仏壇があり神棚があり、そこで日本人は論語を読む。 このことで日本人は合理的精神に欠けているとの批判の向きもあるが、人間は何でもかんでも合理的に生きるわけではない。 非合理的なことを、日常に取り入れるのは合理的なことであると心得ている。」▲
付記:来世を信じることは科学的ではないがが、メリットはあります。 輪廻の思考法は何より複眼的な見方ができます。 性欲・嫉妬・差別意識・劣等感などは心の奥にあり、なまじの修行では消えないので何世にもわたって矯正する。 悟りを開いた方でも、習気(じっけ・潜在的な性癖)は残っているので、悟後の修行があるという。
17,科学者
カルフォルニヤ大学の生理学者リベット・ベンジャミン氏(令和3,6月ネットより) 「心とは幻想でしかない。人間はロボットと同じであり、本当は心なんてない。 考える機能を備えた有機物の塊であると自分自身を捉えられれば、心を失うという恐怖から抜け出せる」。▲
付記:「心というのはない。 心は幻想であるから恐怖から抜けだせる」という。 唯物主義とか科学主義の見方だけで、万事解決ということらしいですが‥。
18,養老孟司先生
「死んだら無になるだけ。 心とは呼吸とか循環と同じような人間の持つ機能の一つに過ぎません。 死ねば消えてなくなるだけ。 そう考えた方が気分は楽になるはずです」。 ▲
付記:学者の話もオメデタイ薄っぺらいのがあります。 中村真一郎(作家)は「死を考えることの無駄。 死後のことよりも今が大事だ」という。 これは「懊悩の欠如」ではありませんか。
ある60代の女性
この女性はガンでなくなったが、生前に語ったこと。「死を思うことは、生をますます大きくする。 生がこの上なく輝き価値あるものとなる。 死は生の反対語であるが、またそうではない。」▲
付記:死について語るならこのような切実な胸のうちを、慮ってほしいと思う。
付記:ある悩み深い自殺願望の人が、食を断って死のうと決意したが、空腹につれて食を思い生を思ったという。
19,ソクラテス
知の巨人ソクラテスは「魂は不滅」といっています。 この人は神さまを語り、死後の世界を語っています。 ソクラテス「哲学を学ぶものが死を恐れるのは、こっけいである。 善良に生きるものは死を何ら恐れることはない。 楽しい世界に行くのだから」と。彼は死刑判決を受け入れました。 死の直前にはそばにいた友人や弟子たちが、別れを悲しみ激しく泣いていたのを「おいおい、あれほど日頃言っていたのに何を悲しんでいるのかい。 私の死はアテネのためになるのだから」と死に行く当人が皆を励まし、普段と変わらない態度で毒杯をあおいで死に至ったといいます。▲
(河口暎著・裁きをこえて・中高生向き)
付記:古代は自然の環境が荒々しく、死がいつも間近にあり切実です。 現代は食べ物はあり医療も充実しているので、死は当分先になる。 科学者が実験の結果、「魂は幻想である」と言ったりします。 幻想だから悩むことはないと言われても、凡人はそうはいきません。 死についてはどうしても昔の偉人から学ぶのが確かなことです。
20,肇法師(じょうほっし)
鳩摩羅什の下に中国の多くの秀才が集まり、その優れた弟子衆が仏典の翻訳に精励しました。俊英の弟子の中でも特に優れた4人がいました。 肇法師はその中の一人。 空観を最も深く体得出来た方がこの肇法師であったという。
肇法師の語「天地と我と同根、万物と我と一体」。 時の国主がその才能を国のために活かしたいと思い「そなたは坊主ではもったいない。 還俗(げんぞく)して朕のために働くがよい。」と厳命した。 しかし肇法師は「畏れながら、私は仏弟子として諸仏への誓いがあります。 その誓いを捨てることは出来ません」と皇帝の命を断ってしまった。 これに絶大の権力者は激怒した。 「不敬なり!」と怒りおさまらず、ついに肇法師は若干30才で処刑されました。 今の世では考えられない悲劇です。 しかし肇法師ご自身は、命より大切なもののためにいう大誓願をお持ちでした。 仏教を信じる者として指標の方です。
21,永嘉(ようか)玄覚禅師(中国・唐)
玄覚禅師曰く「法を重んじて、わが身を軽んず」。 正法の時代の僧侶は、法のために身を節し命を削る生き方をされています。 その余沢を末世の坊主は厚かましく頂いております。 慚愧。
21,近藤誠一(元文化庁長官・平成28)
そもそも民主主義の理念は「人間は合理的に行動する」ということが大前提となっているのである。 しかし現実には人間は常に感情で行動する不完全な生き物だ。 民主主義の下では人は多様な意見をもち、正義は複数ある。 自由は結局強者の論理になりやすい。 多数決は合理的だが、少数派に不満が消えず、社会はいつも不安定要素がある。 必要なのは理念を意識し、徐々に社会をモデルに近づける努力である。 その努力はリーダーだけでなく、大衆にも求められる。」▲
付記:「民主主義は人間が常に合理的に行動することが前提」というのがミソ。 人間社会は天国ではないので、忍耐と寛容です。
22,やけど(テレビ)
看護師のA嬢が休暇で、中南米かのある国に行った時の話です。 そこでは伝統の火祭りがあり、盛大に木々を燃やし、その周りを現地の人々が熱狂的に踊り、観光客も参加する。 A嬢も自然と踊りの輪に入った。踊りは最高に盛り上がり、燃える木々がようやく燃え尽き、燃えがらのおき火の炎がまだガンガンと燃えている。 踊りの場は最高潮に達し、炎の上を歩きだすのだ。 始めに現地の人々が歩き出すが、全く熱くもなく平気の様子で、観光客も続き、彼女も熾火の上を歩いたが、平気だった。 実に不思議な体験をしたという思いで職場にもどった。 仲間にその話をしたところが、「そんなのあるわけがない」と信用するものがいなかった。 「あなた夢でもみたのよ」「旅の空の幻想でしょ」といった具合である。
すると当の本人が「そうか、あれは夢か。 そうだな、あるわけないな。 みんなの言う通りだ」と納得してしまった。
すると、足にやけどが出たという。 これは平成の頃にテレビで聞いたものです。
付記:かくも人間というものは周りから影響を受けます。
23,インドの聖人ラーマクリシュナの講話より
ある大河のほとりで、ある老人がお札を売っていた。 このお札を持っていれば河を歩いて渡れるという。 「じいさん、本当の話かい」と一人の男が興味を示した。 「ホントじゃ。 ただしお札の中を見てはダメだ」。 男はお札を買って川を渡ることにした。 老人は「絶対に中を見てはいかんぞ」と念を押した。 「わかったよ」と男は勇んで河を渡り始めた。
「おお! 歩ける!」と喜んだ。 広い河の中ほどに来たころに、急にお札の中を見たくなった。 「一体、この不思議なお札には何が書いてあるのか」と気になって気になって、我慢が出来なくなってしまった。 ついにお札の中を開けてしまった。 そこには「ラーマ」という神の名が書いてあった。 男は「なんだ、これだけか」と思わず口にした。
すると途端におぼれて沈んでしまった。▲
付記:信じるものがあれば強い。 ただ邪信は多く正信は稀有という。