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- 作成者:Mizuno Shouhei (水野庄平)
- カテゴリー: 武士
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「葉隠」は江戸時代に佐賀鍋島藩々士の山本常朝(じょうちょう)が口述し、同藩士である田代陣基が筆記した。 常に武士らしく鍛錬を志した山本常朝は、仏道に心を傾け42才で出家、曹洞宗の僧侶となった。 編著者の立花俊道師いわく「葉隠は曹洞宗の禅心をもって武士道を説いたものである」。 これは武士の面目が窺える内容です。
1,「禅と葉隠(はがくれ)武士道」
著者・立花俊道「禅と葉隠れ武士道」昭和17年発行。
「葉隠」は江戸時代に佐賀鍋島藩々士の山本常朝(じょうちょう)が口述し、同藩士である田代陣基が筆記した。 常に武士らしく鍛錬を志した山本常朝は、仏道に心を傾け42才で出家、曹洞宗の僧侶となった。 編著者の立花俊道師いわく「葉隠は曹洞宗の禅心をもって武士道を説いたものである」。 これは武士の面目が窺える内容です。
本文
武士は武勇の士なり。 武士は武骨木訥なれど、しかも内には大いなる慈悲あるべきなり。 武士とて武勇のみでは忠節を尽くす能わず。 昔より剛勇一辺では家運続かず、上下滅亡の例多し。 たとい知恵勇気備わるも未だし。 されば運の強くするためには何するぞといえば、慈悲なり。 慈悲心こそが強運の元なり。 武士の職務は農工商を安らかせしめ、万物を化育するなり。 武士は主人のために命をかけ、次に父母・師友・妻子を護るべし。 人の内なる心をよくよく見れば、悪念が限りなし。 人間の念は偽り多し。 偽善の忠孝は真実にあらず。 故に仏神を信じ誓願を持つが肝心なり。
仏神の正体は不可思議なり
仏神の正体は不可思議なり。 知識分別の及ぶところにあらず。 されば疑念を捨て己れの非を知り、直ちに信に入って冥加(みょうが)を蒙(こうむ)るべし。 仏神を信じれば無量の功徳あり。 (冥加‥‥目にみえない功徳)
諸行は無常なり。命は明日も知られず。然らば武士は命を仏神に預け、毎朝毎夕死を習うべし。 事にふれ折りにふれ、死んではみ死んではみ、して覚悟するなり。 これ最も大儀なれど、成せばなることなり。 日々気を改め、死ぬ死ぬと常時死ぬ身になるときは、これ武道に迷いなく心中に自由を得て、一生落ち度なく家職を果たす道なり。 平生 死を習い覚悟決定すれば、死するとき心安きなり。
武士の禁物
武士の禁物は大酒と自慢なり。 逼迫(ひっぱく)のときは人は工夫の念強く、過(あやま)ち少なし。武士に疵(きず)のつくこと一つあり。 富貴になりたがることなり。 窮乏なれば、疵は付かぬものなり。 幸せのときはかえって危し。
武士の自慢や奢(おご)りは散々見苦しきなり。 一方で武辺は別筋なり。 武士たる者は武勇に大高慢をなし、死に物狂いの覚悟が肝要なり。 修行は大高慢にてなければ役に立たず。 我一人で藩を動かさんと掛からねば物にならざるなり。 一生中にご恩を報じること能(あた)わず。 されば七度も何度も生まれ来たって御家に生を受け、御家を守護し奉るべしと決定(けっじょう)すべし。
修行の成就
修行はここまで進めば成就せりと思うべからず。 決して成就ということはなきものなり。成就と思うところ、そのまま道に背くなり。 一生の間不足々々と思いて死すなり。 これを後に成就の人というなり。▲
【訳】
武士は武勇を本分とする。 武士は武骨なれど、しかも胸の内には大いなる慈悲がなければならない。 武士といえども武勇だけで忠節を尽くすことは出来ない。 昔より剛勇一辺倒では家運が続かず、上下滅亡の例が多い。 たとい知恵があり勇気があるといえども、武士としては十分ではないのだ。 それでは運の強くするために、何がよいかといえば慈悲である。 慈悲の心こそが強運の根本である。 武士は内に慈悲を秘め、命がけで武士の勤めを果たさねばならぬ。 武士の勤めとは主君のために命をかけ、次に父母・師友・妻子を護ること。 さらに武士の職務は農工商を安らかせしめ、万物を守護教化することである。
ところで人間の内面というものは、深く観察すると悪念が限りない。 人間の心は偽りが多い。 偽善の心では、裏表のない真実の忠孝はとても出来るものではない。 だから仏神を信じ誓願を持つことが肝要なのだ。 仏神の正体は不可思議である。 知識分別の及ぶところではない。 ゆえに疑いを捨て自分の未熟さをよく知って、直ちに信に入って冥加を蒙ることである。 仏神を信じれば無量の功徳があると首肯することだ。
諸行は無常なり。命は明日も知られず。 然らば武士は命を仏神に預け、朝も夕も死を習うべし。 事にふれ折りにふれ、死んではみ死んではみ、して直心に覚悟するばかりである。 これは最も難しいことであるが、成せば出来ることである。
日々気を引き締め、死ぬ死ぬと常時死ぬ身になるときは、これ武道に迷いなく心中に自由を得て、一生落ち度なく家職を果たす道である。 常日ごろ死を習って覚悟が決まっておれば、死ぬときに心は乱れず安らかだ。
武士の禁物は大酒と自慢である。 人間というのは不幸のときは努力の念が強く起こり、失敗は少ないものだ。 だから武士が富貴になろうというのは間違いなのだ。 窮乏であることが過ちが少なく、疵は付かない。 幸せのときはどうしても油断ができて危い。 武士たるものが自慢げにしたり高慢な態度というのは実に見苦しい。 日々の言葉や態度等においては慢心は厳禁である。 しかし一方で武勇だけは別である。 武士たる者はこと武勇については大高慢をなし、死に物狂いの覚悟が肝要だ。 修行するには大いなる自信を持たなければ、イザというとき役に立たない。 自分一人で藩を背負う気概でなければ物にならない。
一生中にご恩に報いることは出来るものではない。 だから七度も何度も生まれ来たって、御家に生を受け、御家を守護し奉るべしと堅く決心すべきである。修行はこれで成就したなどと思ってはならぬ。 決して修行に成就ということはない。 成就と思った瞬間に、道に外れてしまうのである。 一生の間まだまだ不足と思い続けて死すのみ。 これを後に成就の人という。▲
付記:実に懇篤な訓えなり。 身も心も引き締めている武士の姿を、思い浮かべることができます。 いわく常に勇気の心を奮い起せ。 慈悲を忘れるな。 説く人も聞く人も真剣そのものです。
2,剣士
白井 亨(しらい とおる・1783年生まれ)
白井亨は江戸時代の剣士。 まじめで利発な彼は十五才のとき一刀流に入門。 白井の稽古は凄まじかった。 技量抜群により、二十歳の頃には師範格となった。 実力は抜群であったが、白井は剣の道に深く悩んでいた。 今の自分は強いが、し
かしこの強さは若い時だ。 剣の道というのは力や技を超えた、無敵の境地に至るというものではなかったのか。 何か大事なものが抜けているのではないかと、悶々と悩む日々が続いた。 そんな頃に寺田宗有という60代半ばの老先輩に会うことができた。 寺田に思い切って胸の思いを打ち明けた。 すると寺田は「私と立ち会ってみよう」と気軽にいう。 寺田の流儀は防具をつけずに、木刀で立ち会い真剣の気を練るという当時でも古風なやり方である。 白井は気合鋭く颯爽と構えた。 寺田の構えはどこかゆったりしている。 激しく迫る白井だが どうにも手が出ない。
打ち込もうとすると、圧倒的な気合にはじき返されてしまう。
手足の動きが自由に取れず「ま、まいりました」完敗である。 「先生の剣法は一体どういうものでしょうか」。 寺田「わが天真伝一刀流は心を磨くことが基本である。」 これだ! これこそ長年求めていたものだ。 白井は直ちに弟子入りを願った。 寺田宗有は東嶺禅師に参じて禅を修めた剣士という。
寺田先生「水垢離(みずごり)をせよ。坐禅せよ。邪念を払うべし」。 今や白井に迷いはなく、真冬といえども水を浴び坐禅をし、稽古稽古の日々が続いた。 しかし数年が経ったが進歩がない。 そんな中で激しい修行が続いたため、とうとう倒れてしまった。 そこで寺田先生から「白隠禅師のナンソの法」なる内観を教わった。 何事も熱心な白井は内観の効果も著しく、わづか二ヶ月ほどで回復した。 病いの体験をして悟得するものがあったが、しかし寺田先生の前に立つと、やはりまる
で歯が立たない。 白井は行き詰まり、寺田先生に泣きついた。 寺田「君は剣理は得ているが、心中にまだ迷いがある。
幸いに徳本上人という優れた境涯の高徳がおられる。 この方についてみなさい。」
徳本上人は念仏三昧によって煩悩を滅した清浄の行者という。 早速、白井は上人の所に通い念仏行に励んだ。 ある日の念仏の時である。 上人の澄み切った境涯が白井の無心とピタリと符合した。 その瞬間、上人の鉦(しょう・法具)を打ち続ける手の精妙の機を感得した。
ついに寺田先生の示す『天真』の境涯に徹した! この時、白井三十三歳。 寺田先生の下で五年余りが過ぎていた。
白井亨が五十歳の頃のこと
当時は剣道が盛んで、江戸には道場も多く名剣士が大勢いた。 この頃に大石進という豪勇無双の剣客が、大胆にも九州から
江戸に道場破りにやってきた。 この大石という男は身長2メートル、怪力の持ち主で使う竹刀が普通より五十センチも長い。 図体が大きいばかりでなく才能があり、加えて研究熱心というから只者ではない。 その長い竹刀を自在に扱い、大石流という独自の流派を立てている。 年令は三十七。 これまでにない破格のスケールの使い手に、江戸中が大騒ぎである。 千葉周作、男谷精一郎といった名だたる達人も、大石の鋭い突きにてこずった。 この時ただ一人、白井亨が大石を下し、江戸の剣法の面目を保ったという。 白井亨の亡くなった年は天保の終わりころという。
勝海舟
勝海舟は若い頃に、老剣士白井亨を見て大いに刺激を受けたようです。 いわく「おれもかって白井亨という達人に教えを受けたことがある。 この人の剣法はいわば一種の神通力を具えていたよ。 彼が白刃をもって道場に立つや、凛然たるあり・神然たるあり。 犯すべからざるの神気、刀尖より迸(ほとばし)りて真に不可思議なものであった。 とても正面には立てなかった。 おれもぜひこの境地に達せんと懸命に修行したが、到底無理だったよ」。
このように 英傑の勝海舟が感嘆しています。 (大森曹玄著「剣と禅」春秋社)
寺田宗有 (1745~1825)
寺田宗有は高崎藩の武士。 身体は生れながらに強くたくましい。 ただ武辺だけでなく、神仏を崇め心広く大樹のような頼もしい人物。 十代のとき剣を江戸の中西道場で学んだが、後に18才頃に平常無敵流という古流に転じた。 この流派は面具は付けず、必殺の気迫で木刀の打ちこみを繰り返し、型を身に付けるというもの。(この流派の祖、山内一真は日蓮宗の僧侶)。 寺田は十二年の修行後、平常無敵流の免許皆伝を受け帰藩した。 高崎藩では役人として精勤。 高崎藩は寺田の学んだ古流を認めなかった。 数年後に再び中西道場への修行を命じたのである。 中西道場にあっても、寺田の実力は群を抜いていた。 また東嶺禅師に参禅して心機を練った。 東嶺禅師から「天真」の道号を授かっている。
(東嶺禅師は白隠禅師の第一の高足)。寺田は剛力があり何百キロの重さも平気で持ち上げた。 毎日の水浴びは八十になっても欠かすことはなかったという。

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【No、2】
偉人や英雄の伝記は老人には認知症予防になります。 また武士の振る舞いは80すぎても憧れ。 新聞の切り抜きは30年余りになります。
内容:青砥藤綱‥‥正三和尚‥‥葉隠‥‥知識人‥‥原田祖岳老師‥‥丁稚奉公‥‥姉妹‥‥不思議‥‥ローマの若者
1,「論説作文例題」 明善堂書房(明治19年発行)
「論説作文例題」は和綴じの古い書物です。 およそ60年昔に古書店で手に入れました。 内容は作文例の類、ほかに歴史上の偉人の逸話です。
論説作文例題
序に曰く、今や文教振興し諸学日々進み、文章最も行わる。 作文の便益の書が多く上梓されるも、如何せん大家の作であり、初心の者には容易ならず。 よって僭越ながら初学の一助のために、この編をなす。 文を作るは必ず、気を養うにあり。 気充つれば則ち文に溢れる。 ゆえに杜牧の曰く「文は気をもって主要となす。気和やかなれば、文は自ずから悠容。 気壮んなれば、文自ずから雄健。 気清ければ、文自ずから鮮明。 凡そ文を作らんと欲するものは、先ず気を養うべし」。
遠坤儀いわく「気を養うは容易ならず。 まず心を正しくし、万縁を離れ精神を泰然として無心となり、世のためにと心乱さざれば、気は自然に安定するものなり。」 文章は意思の優れたる者は、言辞愈々素朴にして文意いよいよ高し。 意思の劣れるものは、言辞いよいよ華美にして、文章いよいよ野卑なり。 かって戦国策序にいわく「奇語・怪語の類なくして、之を読むに醇酒の至味のあるを覚えるなり。」
【訳】
よい文章を作るには、必ず気を養うべきである。 気力が満ちていれば、即ちその文章は自ずから充実する。 ゆえに杜牧いわく「文は気をもって主要となす。 気が和やかなら、文は自ずから悠容となる。 気力が勇壮なら、文は自ずから雄健。 心気が清ければ、文は自ずから鮮明。 だから凡そ文を作らんと欲するものは、先ず気を養うべし。遠坤儀いわく「気を養うことは簡単ではない。 まず心を正しくし、精神を泰然として無心となり、世のためになるようにと心に決めれば、気は自然に安定していくものである」。 意思の優れた者の文章は、内容は深いが言葉遣いは素朴なものである。 意思の劣った者は、言葉がもっともらしく美辞であるが、その文章はかえって野卑なものだ。 かって戦国策序にいわく「よい文章は奇語・怪語といった類いのものがない。 そういうものを読んでみると、実に美酒のごとく最高の味わいを覚える」。
付記:さすがに明治。 文章を書くならまず「気を養え」とある。
青砥藤綱(あおと・ふじつな) 「論説作文例題」より
鎌倉時代、執権の北条時頼公は鶴ヶ岡八満宮を厚く信じていた。 ある夜、神夢を得た。 「家臣の青砥藤綱に加増せよ」とのお告げである。 早速、時頼公は青砥に「汝に加増する」と申し渡した。 突然の話に青砥は「はッ、有りがたき幸せ。されど一体何故でありますか」。 時頼公「八満さまからのお告げじゃ。 ありがたく思うがよい」と上機嫌である。
ややあって青砥は「折角ではありますが、畏れながらこのお話はお断り致しまする」と昇給の話を断ってしまった。 怒った時頼公「何を申す! 命に叛くというか」。 青砥「私に手柄があってのご加増なら、謹んでお受け申します。 お告げによるとあっては納得できませぬ。 もしお告げで「藤綱の首をはねよ」とあれば、私は首を切られるのです。 過ちがあれば命に服しますが、お告げであるから首を差し出せとあっては、断固拒否申したい。」 これには「そちの話もっともである」と名君時頼公は 納得です。 この一件で青砥の賢明さを知った時頼公は、彼を左衛門尉(貴人警護の要職)に任命した。
(この話をかって、仏教評論家ひろさちや氏いわく「普通なら理由など何であれ、昇給なら喜んで受け、減給なら自分に不始末があっても、拒否したいと思うものだが‥。」)
またあるとき、領民同士の土地争いがあった。 一方は時頼公の封土のものである。 これまでの裁きの担当者は、時頼公に憚るのが常であったが、この時に裁いたのは青砥である。 事の仔細を明らかにした青砥は、時頼公に憚ることなく、時頼公の封民に非であると決を下した。 田地が戻った農民は喜んで、密かに一封のお礼を置いていった。 これに青砥は大いに怒って「訴訟というのは、必ず平直に裁くものである。 汝一人のためにしたわけではないわ!」と突き返した。
またある夜、青砥は滑川を渡ったが、10銭を川に落としてしまった。 そこでわざわざ50銭を出してたいまつを買い川を照らして捜し、10銭を取り戻すことができた。 ある人が「かえって損をしていますね」というと青砥は「落とした10銭は、そのままでは誰の手にも入らない。 わしは50銭を失ったが、それを得たものがいるのじゃ。 これは世を益したことになるではないか」とすずしい顔であった。▲
付記:鎌倉時代に「礼節・勇気・忠義・清廉等々の武士の徳目」が出来上がったという。 日本の歴史には度々国難がある。 蒙古襲来・幕末の列強による危機・幕末の動乱・日露戦争等々。 これらの国の危機を守った要因は武士の存在が大きい。
太平洋戦争でアメリカには負けました。 終戦当時、日米交渉のとき鈴木貫太郎が外務大臣の吉田茂に「日本の国柄に相応しく、負けっぷりよくあれ」と助言した。 「負けっぷりよく」も武士の潔さです。
論説作文例題・おわり
2,鎌倉時代(1185~1333)
正統の禅が中国から日本に相伝されたのは鎌倉時代です。 まず中国から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)禅師が来日された。 蘭渓禅師は日本僧から「日本では学問仏教が盛んですが、実参の禅宗は未だ伝わっておりません」と聞いて、日本での教化を志したそうです。 北条時頼が建長寺の開山として蘭渓禅師を迎えました。 続いて無学祖元禅師が北条時宗の招請で来日。 無学禅師は円覚寺の御開山。 この頃に日本から中国にわたり、禅の正伝を継承し帰国されたのが、栄西禅師・道元禅師と大応国師。 当時の禅師方の語録や訓戒が、今も坐禅弁道の指針になっています。
瑩山(けいざん)禅師(1268~1325)
瑩山禅師(1268~1325)は曹洞宗・道元禅師から4代目の祖師。 「坐禅用心記」は瑩山禅師の著作。 その一部。
坐禅用心記
「心地を開明せんと欲するなら、雑多の知識を捨て、一切の妄情を絶せんことを要す。 しかして一実の真心を現成せば心月明らかなり。」 「煩悩は無明より起こる。 無明は己れを明らめざる故なり。 坐禅はおのれを明らめるなり。」
「古人いわく妄息(や)めば寂生じ、寂生ずれば智現ず。 智現ずれば真が見(あらわ)れる。」(訳:妄念が止めば禅寂が生じ、禅寂が生ずれば真智が現れる。 真智が現れれば仏性が現れる。)
「坐禅を専らにする人は説法を好むなかれ。 散心乱念これより起こる。 多行多学するなかれ。」 「もし坐禅久しき時は、必ずしも安心せずとも、心散乱せず。」 「国王大臣権勢の家・多欲戯言の人・女人といったものに近づくなかれ。」
「無始以前の消息、空劫那畔の因縁、仏々祖々の霊機枢要ただこの一事なり。」(宇宙の始まり以前のことも宇宙終焉というのも、仏祖の霊智に通じるの意。 現代の宇宙観にも通じるような言葉です。)
付記:「坐禅を修する者は多く学ぶな。 説法を好むな」とある。 これはとくに利口者のための戒めです。 意識をただ「身心脱落」に向けるために、無用のことは捨てなさいと。 古人の言葉は現代人には容易に近づけない内容ですが、当時の参禅者は言行に違背はありません。
3,鈴木正三和尚(1579~1655)
正三(しょうさん)和尚はもと徳川家康・秀忠に仕えた武士である。 関ケ原の合戦などに加わった。 若いころから坐禅を修したが、その取り組みは「死の恐怖」の克服をめざすものでした。 この人の言葉は戦いの修羅場の体験者ならではの、切実なものです。 42才で曹洞宗にて出家。 勇猛心を強調して独特の「仁王禅」を提唱した。 異端の禅者ともいわれますが、この人の説話は初心者にとてもわかりやすいものです。
正三和尚のことば
「死ぬとも何とも思わぬ心になりたさに修行するなり。不死の境地になりたさに修するなり。」 「我は死ぬがいやさ故に生き通しに生きて、死なぬ身になりたさに修行するなり。 不死の法門に入らぬ中は生々世々(しょうしょうせせ)にかけて
修せん。 煩悩の束縛を断つ本来の主人公を、生け捕りにせんと堅く願うなり」。 「仏法修行は勇猛の大威力を要す。 仁王の勇猛不動の坐禅をなすべし」 「ただ死ぬことをキッと意識し、無理に死を習うべし」。「奥歯をかみ眼を据え、怯む心・迷う心を払い断つ工夫なり」。 「諸方は念起こさず坐禅なれど、我は念起こし坐禅なり」。
「須弥山ほどの大念を起こさずば、打成一片とはなりがたし」 「わが法は臆病仏法なり。何とぞ恐れなく死んでいく身になりたし。修行はたやすくならず。 如何にしても真実の心、起こる様にすべし。」 「またこの一生にて解脱し達道の人にはなりがたし。 曠劫多生にかけてする事なり。」
*須弥山(しゅみせん)‥‥仏教で世界の中心にある最も高い山。
*打成一片(だじょういっぺん)‥‥心を一所に集中した八面玲瓏の極致。遊戯闊達の境地。
*曠劫(こうごう)多生‥‥生まれ変わり死に変わり、限りなき時間をかけてやるのみ。
**坐禅の心得として「雑念を捨てろ」「無心なれ」というのは、間違いやすい。 当初は妄念でもなんでもいいから、強く激しい気迫を奮い立って即今に打ち込むしかない。 かくして妄念変じて真実の工夫になる。
正三和尚、武士に示す
それ武家に生まれし人は常に心を強く用い武芸を磨き、敵軍にただ一人駆け入らんことを常に思うべし。 たとえ無類の豪の敵なるも何ぞ恐れん。 命惜しまず捨て身の心は誰にか劣らんや。 この堅固の心を自在に用いることなくんば、戦いは叶わざるなり。 常々隙なく工夫長養すべきは、即ちこの勇猛堅固の心なり。 仏法というも一心を堅固にして大丈夫の心となるを成仏というなり。
商人に示す
売買をせん人は、先ず利益の得るべき心づかいを修行すべし。心づかいとは正直の道を学ぶなり。 正直の人には、諸天の加護ありて衆人相親しむ。 売買の業は国々の人々に軽便自由をなさしむ天職なり。利益のみ求め私欲を専らにする人は、天道に背き万民の憎しみを受く。 されば恐れ慎みて私欲の念を捨て、商いせんには天の福相応す。 然りといえども、たとえ福徳を得て高位名誉あるとも、これ『有漏の善根』なるを知るべし。 たとえ長者となり楽しみ極むとも、世界は夢のごとく儚(はかな)し。 仏法は無漏の善根なり。 無漏善というは涅槃(ねはん)の妙薬なり。 涅槃とは生死を超え一切の束縛を打破したる、大自在境なり。 万民のために自国の物を遠国に、遠国の物を自国に移すは菩薩行なり。 山河を越え荒海をわたる時、全ての執着を捨て、商いせんには諸天これを守り福徳充満せん。 悦び何かこれに過ぎん。
*有漏(うろ)‥有限 無漏(むろ)‥無限
農人に示す
農業すなわち菩薩行なり。正直を守って勤むるときは自ずから功徳具わる。 政事(まつりごと)をなせる基(もとい)、万民和楽の礎(いしずえ)はこれ農夫の徳なり。 農人は天の授け給う世界養育の役人なり。 この身を天道に任せ、一鍬一鍬に誠に住せば菩提の種となり常楽自在を受くるなり。
職人に示す
全ての事業はみな菩薩行なり。仏体を受け仏性具わりたる人間は、一切の所作みな世界のためとなることを知るべし。 真如の一仏、百億分身して世界を利益し給う。 鍛冶・大工などあらゆる職人なくては世界の便宜融通なるべからず。 手の自由・足の自由は唯これ一仏の技なり。誠もって技量を磨き、世のためとなるこれ諸仏の願いなり。 仏心は不滅なり。 仏心は怒りなく乱れなく、大喜心なり。 されば志を励まし勤むるとき、機の熟するに随って道を体得し、喜悦無我の境に遊ぶなり。▲
「鈴木正三道人全集」 山喜房仏書林・鈴木鉄心編
【 訳】
死ぬことを、何とも思わぬ不動心を得るために修行するのである。 私は死ぬのが絶対いやだから、死を恐れぬ自分になりたいから修行するのだ。 不死の境地に至るまでは、何度も生まれ変わって修行するばかりである。 我が心には真実の主人公が潜んでいる。 この主人公こそが、煩悩の束縛を断ち切る叡智と力量を有している。 この主人公を生け捕りにしてやろうと
堅く願いを持っている。 仏法修行は勇猛心を激しく奮い起すことが大事である。 仁王の勇猛不動の坐禅をなすべし。
ただ死ぬことをキッと意識し、無理やり死を見据えるのだ。 奥歯をかみ眼を据え、怯む心・迷う心を払い断つ工夫である。 世間一般の坐禅は念を起こさないようにするが、わしは念起こし坐禅を推奨する。 ヒマラヤ山ほどの突き抜けた大念を起こさなければ、坐禅の極致には到達できるものではない。 私の法は臆病仏法である。 何とか恐れなく死んでいく身になりたいと願うのである。 修行は決してたやすいものではない。 なんとか工夫して、真実の心を起こる様にしなければならない。 またこの一生でもって解脱し達道の人になれるものではない。 未来永劫にわたって生れ変わってする事である。
武士に示す
それ武家に生まれた人は、常に心を強く用い武芸を磨き、敵軍にただ我一人で立ち向かう意志を常に持たねばならない。 たとえ相手が無類の豪傑の敵だろうが、何を恐れることがあろうか。 命惜しまず捨て身の心は誰にも負けぬぞ。 このような堅固の心を、自在に自分のものとしなければ、いざ戦いの場となると何の働きも出来ないのだ。 四六時中に工夫し長養すべきなのは、即ちこの勇猛堅固の心である。 仏道修行というのも、わが一心を堅固にして不動心を得るのを、得道(とくどう)というのである。
〇武士に示す
それ武家に生まれた人は、常に心を強く用い武芸を磨き、敵軍にただ我一人で立ち向かう意志を常に持たねばならない。 たとえ相手が無類の豪傑の敵だろうが、何を恐れることがあろうか。 命惜しまず捨て身の心は誰にも負けぬぞ。 このような堅固の心を、自在に自分のものとしなければ、いざ戦いの場となると何の働きも出来ないのだ。 四六時中に工夫し長養すべきなのは、即ちこの勇猛堅固の心である。 仏道修行というのも、わが一心を堅固にして不動心を得るのを、得道(とくどう)
というのである。
〇商人に示す
売買をする人は、先ず利益の得られるように心づかいをすべきである。 心づかいとは正直の道を学ぶことだ。 正直の人には、諸天の加護があり多くの人に親しまれるようになる。 売買の行為は広く地方の人々にも便利を与える天職である。 利益のみ求め私欲を専らにする人は、天道に背き人々から憎まれる。 だから恐れ慎みて私欲の念を捨て、商いをすれば天からの福楽に恵まれるであろう。 しかしながら例え福徳を得て高位名誉があっても、これは『有漏の善根』である。 たとえ長者となって楽しみを極めようとも、この世界は夢のごとくであり実に儚(はかな)い。 仏の教えにおいては無漏の善根を得ることが肝要である。 *有漏(うろ)‥有限 無漏(むろ)‥無限
無漏善というは涅槃(ねはん)の妙薬である。 涅槃とは生死を超え一切の束縛を打破したる、大自在境なり。 万民のために自国の物を遠国に運び、遠国の物を自国に移すことは、人々に喜びをもたらす菩薩行である。山河を越え荒海をわたる時、全ての執着を捨て、商いをすれば諸天がこれを守って下さり福徳に満たされる。 これほどの悦びがあろうか。
〇農人に示す
農業すなわち菩薩行である。 正直を守って勤むるときは自ずから功徳が具わってくる。政治をなせる基本、万民和楽の基礎は農夫のもたらす福徳である。 農人というのは天地に生きる命を養育する職であり、天から仕事を授けられた役人である。 この身を天道に任せ、一鍬一鍬に誠を尽くせば菩提の種となり、常楽自在を受けるようになるのだ。
〇職人に示す
全ての事業はみな菩薩行なり。 仏体を受け仏性具わりたる人間は、一切の所作みな世界のためとなることを知るべし。 仏が種々に分身して世界に利益をもたらし給う。 鍛冶・大工などあらゆる職人が存在しなかったら、社会は実に不便であり便宜融通がなくなってしまう。 手の自由・足の自由は唯これ仏の技である。 誠もって技量を磨き、世のためとなるのが諸仏の願いなのだ。 仏心は不滅。 仏心は怒りなく乱れなく、大喜心である。 されば志を励まし勤むるとき、機の熟するに随って道を体得し、無我の境に遊ぶことが出来るようになるのである。▲
付記:正三和尚はことさら難しい表現や言葉がなく、400年前の武士の気構えがよく理解できます。 死ぬのがいやだから仁王様の勇猛心を起こす。 無理やり死をキッと見据える。何とか本気の心を起こす等々‥‥その一言々々は強烈ですが、臆病な凡人が勇者になる呪文です。 また慈悲の人であり庶民にも真摯に法を説きました。 いわく農業のおかげで、お上から下々まで恩恵を受けている。 また職人の技がなければ、我々の生活がどれほど不便であろう。 さらに商人の活動の故に、品々が遠い地方にまで広く人々に行き渡る。 正三和尚のお話は四百年前のものですが、差別意識がなく誰もが誇りを持つ明確な役割分担の話で、現代の我々にも気付かせてくれます。
鈴木正三和尚・おわり
◇来世を信じることのメリット
心が大きくなる。 善に近づき悪を避ける。 ものを俯瞰できる。 苦しみを試練と受けとめられる。 複眼の見方が出来る。 うぬぼれや嫉妬の気持ちを和らげる。 来世を信じるものには時間が無限にあり前途洋々である。 老人も大志を持つことができる。 因果を信じたからといって、すぐに幸せになれるわけでもないし、問題が片付くわけでもないが、孤独を支えます。
「自分で考えることが大事だ」「主体的に自分で判断し決断せよ」とかいうが、知識も経験も十分でない人間に言っても無理というものです。 まず基本的な思想や道徳観として因果応報を胸に刻むです。 時代錯誤といわれるので胸にしまっておこう。
4,武士の子
三橋権之丞(ごんのじょう)は赤穂藩に仕える武家の子どもである。 三橋家では屋敷内に鶏を飼っていたが、時々猫にひよこを襲われた。 怒った権之丞は猫を吹き矢で狙うことにした。 ある日、様子を窺っていたが、猫が忍び込んできた。 権之丞は吹き矢をヤッと放った。 見事に命中! 猫はもんどりうって恐ろしいほどの大きな呻き声を出し、転げまわって息絶えた。
数日後、権之丞はなんだか気分が優れない。 ふとどこからともなく猫のうめき声が聞こえだした。 あの猫だ! 一体、猫はどこだ? よくよく観察すると、その声は何と権之丞の腹の中からではないか。 自分の腹に猫の霊がいる! 権之丞はとうとう寝込んでしまった。 困った両親は、権之丞の叔父にあたる若者に相談した。 この若者は文武に励む立派な武士である。 権之丞が日ごろ親しく教えを受け、心から敬愛している。 叔父は権之丞に厳しく言った。 「猫に祟られて明日をも知れぬとは情けない。 わが一族の恥である。 かくなる上はせめて最後に武士らしくせよ。 切腹して汚名を雪ぐべし」。
切腹の作法は幼少のころから学んでいる。 権之丞はもはや随うしかない。 切腹の場が設けられ、介錯人は叔父。 もろ肌を出しいざ短刀を手に構えた権之丞。 叔父は大刀を大上段にかまえていった「このような仕儀になったのはお前の不心得である。 しかし生意気なのは猫のやつじゃ。 決して許してはならぬ。 わが身もろとも猫を退治せよ。 討ち損じるな」。
権之丞は合点して、腹をさすり様子をさぐった。 あいつめ!と確かめたがさて猫がいない。さっきまで声がしていたはずだが‥。 気配がない。 「叔父上、猫がおりませぬ」 「落ち着いてよく探ってみよ」。 猫はときには動きまわって体のあちこちに行くので、権之丞はさらに耳をすましたが、しかしいない。「叔父上、やはりおりませぬ」 「なに? 猫めは刀に怯えたか」。 叔父は大刀をおさめてしまった。 「猫がいなくなったからには、もはや腹を切ることもあるまい。 切腹は中止する!」。 「権之丞よ、武士は命を惜しんではならぬ。 しかしいたずらに死に急いではならない。 義のためには恥を忍んで生き抜くこともある」。 権之丞の心はまだ整理がつかないが、猫の気配は消えて体がすっかり軽くなったようである。 ▲ (昭和28年・後田多門・大法輪誌)
付記:当時の世の中の空気は大人も子どもも厳格でした。 荒療治は大人側にも日ごろの覚悟がいる。 そして慈愛。 心ある武士が存在しました。
5,ローマの若者
ローマ全盛時代、サムという若い騎士は勇気があり快活な男である。 ある日、ロッテという美しい女性に出会ってたちまち一目ぼれ。 すぐに彼女に近づき「おお、私の太陽!」と愛の告白をした。 ロッテはすげなく拒んだが、サムはその後も何度も彼女にアタックした。 「どうか私の愛を受け入れてほしい」とせまるが、ロッテは「私よりずっと素敵な貴方にふさわしい方がおられますよ」と避けるばかりである。 ある日、円形闘技場で人間とライオンが闘うという大人気の催しがあった。 サムも闘技場に行くと観衆の中に、ロッテがいた! 彼は早速近づき「ここで出会うも運命! わが想いをわかって下さい」と熱く迫った。 ほとほとウンザリの彼女が一計を思いついた。
ハンカチを闘技場の中へ投げ入れて言った。 「あれを取って私に渡してください。 それが出来ればあなたの気持ちに沿いましょう」。 殺気立ったライオンがいるというのに! しかしサムは構わずサッと中へ飛び込んで、ハンカチを素早くつかみ取って彼女に渡してしまったのである。 ロッテはまさかと驚いた。 その勇気ある素早い動きに、忽ち心奪われた。 「サム様! なんとすてき! 私はもう貴方の御許へ!」。 ところがサムの心は一変していた。 「私はこの瞬間に最高のものを獲得しました! この世で何より大切なもの、どんな財宝や恋愛よりもはるかに貴重なものです」。 「あなたのためにと私はライオンと向かいましたが、その恐怖は想像を越えたものでした。 しかし恐怖の先にあったのは無上の宝でした。 これはあなたと出会ったおかげです。 これからはこの宝を大切に守っていきます。 あなたとはお別れですが、どうかあなたが幸せでありますように。」と言って立ち去った‥。
(平成17年、上田閑照(しずてる)京大教授(哲学)ラジオでのお話)▲
(上田教授は、学生らと相国寺僧堂(京都)で坐禅をされた方です。)