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お釈迦さま
「私は不死の法門を開いた。私の教えを守れば誰でも同じ境地に到達するであろう」。
沢庵和尚
「天地は循環して尽きず。 始まれば終わる。 その終わりも永く止まらず。 終わってまた始まる。 生ある者は縁に随う。 一人の生死は竪に窮まりなく、横に縁に随って無辺なり。」
(命は無限に続き、縁にしたがって人としてあるいは動物にと種々の命を受けて無辺である)。
深く禅定に入って観察すれば、生なるものの実体というものはなく、 滅そのものを観察してみると滅の実体はなく滅相はない。 あるのは幻生であり幻滅である。 しかるに人間は幻生を見て執着し、幻滅を恐れている。 正しく深く観じて実相を悟れば、生滅を離れ涅槃大安楽地に至る。
如浄(にょじょう)禅師(中国)
如浄禅師は道元禅師の悟りの師匠。 如浄禅師の教示はやはり強い意志です。 いわく「無の字を鉄の箒として雑念を払い切れ。雑念を払おうとすれば,増々雑念は増える。 雑念妄想というものは転(うた)た払えば転た多くなるものである。 そこで切羽詰まって払うことも出来ない処を、命がけで払っていくのだ。 昼も夜も背筋を伸ばし、勇猛に工夫せよ。
鉄の意志を持続し工夫熟せば、忽然として虚無を打破する時節が訪れる。 そのときには千差万別の疑問も豁然と解消するであろう」。 枯崖和尚漫録(中国)▲
**無明‥‥根源的な無知・愚昧。 煩悩‥‥怒り・性欲・嫉妬・慢心等々の欲望執着。
博山(はくさん)和尚参禅警語(中国・明時代の禅書)
明時代は中国の仏教も下火傾向となり、そんな時代に、元来(げんらい)和尚という禅僧が気を吐き大勢の弟子を育てました。 博山という所に居たので博山和尚と称された。
博山和尚参禅警語
禅工夫をなすには、まず「生死を破る決意」を発すること堅強なるべし。 しかして世界身心これ悉く仮縁にして実の主宰なしと看破せんことを要す。 禅は疑情を起こすことを貴ぶ。疑情とは「生は何れより来るや。死は何くに去るや」これなり。
数学者トム(フランス)
「全てのものごとは頂上に達すると不安定になる。 頂上からは安定の局面に向けて一気に下降する。 これをカタストロフィの理論という」。
付記:この宇宙には太陽よりも何百倍も巨大な恒星があり、その恒星の重力がたいそう強いので、自分の重力で自分の中心点に向けて縮んでいく。 その恒星は縮んで遂に極限までいくと、大爆発する。そして全ては宇宙のチリとなって広がっていく。 中にはブラックホールになるという壮大な話です。 これは坐禅のイメージにも似ています。 内面の一点に向かってグイグイ追求する。 そして集中の極致にいたって、豁然大悟する処です。 「大悟」の瞬間は「爆発」という表現をしています。
アテネの哲人(1)
「魂は不滅である」は哲学者ソクラテスの言葉。 いわく「正義とか真理とかいうものは、視覚や聴覚でとらえることは出来ない。 肉体と魂とを切り離して、純粋な精神になって考えるのが哲学者の仕事だ。」 「善とか真とかをじかに手にすることもできない。 ただ魂のみになって思索することで、理解されることである」。 「哲学を学ぶものが死を恐れるのはこっけいだ。 善良に生きるものは死を何ら恐れることはない。 もっと楽しい世界に行くのだから。 私にはそれがハッキリ見えるのだよ」。 この偉大なる哲人は難しい言葉や表現などに関心なく、日常の用語で善き生き方を自覚せしめようとしたと。 神さまのことや死後の世界も語っています。 彼は死刑判決を受けたが最後に臨んで、友人や弟子たちが深く悲しんで泣くのをみて「おいおい、何をそんなに悲しんでおるかい。 私の死は無駄ではない。 アテネのためになるのだから」と死を前にした当人が皆を励まし、普段と変わらない態度で毒杯をあおぎ死を受け入れました。 ▲
河口暎著「裁きをこえて」 日本教文社 昭和55年・中高生向き▲
付記:ソクラテスの思索はただ知性だけでなく、生まれながらの深い悟性(ひらめき)が具わっていました。 西欧にはインド式の身心一如のような瞑想法が少ないようですが、それでも天性の素質ある人が神秘体験をしています。
ソクラテス(2)
ソクラテスは見せかけの学問を嫌って、よき生き方を求めようと青年たちに話しかけた。 ソクラテスには特異なことがあった。 それは彼が思索三昧に入ると、そのまま不動の姿勢になるという奇異な体の現象である。 彼が何か熟考が始まると座っている時なら座ったまま、立っている時なら立ったまま、何時間もその姿勢が続く。 そんな固まったような状態が数時間もたって、ふと我に返ると彼は大いに納得顔で平常にもどった。 禅語に「天地と我と同根、万物と我と一体」とある。 ソクラテスは生まれながらに禅定体質なのか、深く透徹した集中が可能でした。 これは禅僧が深く禅定に入って何時間も坐禅を続けたというのに似ています。 これは無理に長くしたわけではなく、深く集中し歓喜の境地を味わっている間に時間が経っているらしい。 ソクラテスは兵士として戦いに三回ほど参加したことがある。 その戦いぶりはまるで鬼神のごとき勇猛さで、余りにも恐ろしい気迫に敵兵は近寄れず、彼の周りには輪ができたという。 また兵糧が尽きて何日も食べないときもあり、兵士たちは体力を失って動けない状況の中で、ソクラテスだけは衰えがなく普段と変わらずパワフルであった。 そして久しぶりに食べ物がみんなに振舞われた時には、人の何倍も食べ誰よりも飲んだ。 みんながあきれる中で、彼はケロリとしていた。 寒さの厳しい中でも平気というから、その豪傑ぶりは「異次元の存在」です。 ソクラテスは71才で死刑判決を受けました。 偉大過ぎて市民に理解されなかったという。 もちろん彼を救おうとする人たちがいました。 心から尊敬している有力者の一人が「貴方を必要とする人たちが大勢います。 獄舎から脱出できる手はずは整っています」と、強く刑を逃れるように説得した。 ところが彼は感謝しながらも断わります。 「私はアテネを愛している。そのアテネの法律を破るわけにはいかない」。 旅行にでも出向くように周りの人たちに「なにも心配いらない。それより君たちはよい生き方をしてもらいたい」と平常心を失うことはありませんでした。 ▲
司馬遼太郎
「人間を尊敬することを知らなければ、健全な批判精神は育たない」。▲
仏教学者渡辺照宏
仏教学者渡辺照宏氏によると、死後の世界を信じる人の方が信じない人よりはるかに多いそうです。氏は「死後を信じることをおすすめする。信じて失うものは何もないのですから」といわれる。 因果応報と輪廻転生の二つを心得ておけば、間違いが少ないと思う。日々たくさんのニュースがあふれていますが、ほとんどがどうでもいい。 まず基本になる考え方や土台になるものを学びたい。 来世を信じることのメリットといえば、ものを複眼的に見ることができる。 たとえば小心の凡人の人生は情けない日々が多いけれど、幸いにも人間界の一人である。 来世を信じるものには時間が限りなくあります。 ですから悟りを目指すことは可能です。 非科学の話ですが、科学で証明できないことでも有益な点があります。
原田祖岳老師
天上界は努力が不要の世界である。 地獄界も動物界も努力のない世界である。 人間界のみが努力できる。 努力こそが向上し、根本智慧に達する秘法です。 何ぞ努力せざらんや。
立花隆氏語る・NHK(平成3)当時75才
「死後の世界があると思っている人は、頭のどこかに欠陥がある。 正しからざるものを正しいと信じこもうとしているだけだ。」 「臨死体験は脳科学の知見をふまえ、死の直前に衰えた脳が見る ❝夢❞に近い現象を科学的に明らかにした。」
「死が空気のような日常的なものになって、死は恐くなくなった。 後期高齢者の大半は死を恐れていないことがわかりました。 前期高齢者との違いですね。」▲
知識人
知識人が「死後は無である」とするのが、いかにも知識人らしい。 石原慎太郎氏は自分を仏教徒としながら。 死後は無と言っています。 禅を学ぶ人は悟道を語りますが死後の話はあまりしません。 一般的にいっても、死後の存在を否定する方が知的な印象があります。 しかし命が現世のみとすると、多くの命が救われないのではないか。 生涯誠実を通してしかも報われない人。 義を貫いて落命。 戦火の子どもたち。 激甚災害の犠牲者。 これらは転生のうちに清算され、必ず報われる。 また 悪逆非道にして悠々長寿なるものは、死後悪趣に赴くのみ。 これがバランスを維持するための良薬です。 慎太郎氏は「あと三カ月」と余命宣告されて、思考も思想もおかしくなったという。 ご存じ慎太郎氏は強気で才能があり若い頃から大活躍され、89才の長寿でした。 それほどの人物も死に臨んでは平常ではおれないのですから、容易ではありません。 私も83才。 仏教を学んでいますが、小心者に覚悟はむつかしい。
禅関策進(禅書)
「人々はあるいは水牛や豚に生まれ、鳥や魚にも生まれたことであろう。 その血は海水の量よりも多く、骨は山よりも高い。なぜならはるか昔の無始より輪廻しているからだ。 だからこそ、輪廻の苦悩を解脱する努力をしなければならない」。▲
報怨行(達磨大師四行観)
もし修行者が苦しみを受けたなら当にかく念ずべし。「我は無数劫の往昔より本を捨て末に従い、流浪して怨憎を起こし違反傷害限りなし。 今は犯すことなしといえども、悪業の結果熟す。 天に非ず。人に非ず。 与えられたる所を甘心甘受して全て訴訟するなかれ。」 経にいわく『苦に逢うて憂えず。 なぜなら識達するが故に』。 この心生じるとき理と相応す。
怨を体し道に進む。 故に説いて報怨行という。
作家
作家さんに因果応報を嫌う人がいます。 昭和のクラハシユミコという女流作家いわく「因果応報という教えで人間の精神を縛り、生き方を狭めてきた。 人間は本来もっと自由であるべきだ」。 寂聴さんも「優等生の文はおもしろくない」と自由なもんです。 昭和の作家小島政次郎が本音を言ってます。「作家というのは、特に立派な良識があるというわけではない。 私は作家という人種は人間として信用していない。 彼らはとらわれもなく発想し自由に書く。 しかし、そこに作家としての創作のおもしろさがあるのだ。 だから信用できないが、作品は好きである」。
付記:仏典によれば情欲の耽溺ほど恐ろしいものはない、淫欲のからんだ因縁は生まれ変わっても何世にわたって苦しみが続くとあります。 不倫愛欲のドラマなんぞにはまらぬようお互い御用心。
河合隼雄氏のお話
「昔は神話・伝承などの人々共通の物語があり、人々の心と民族を支えた。 人間は物理だけでなく、物語がなくてはやっていけない。 現代人にも共通の物語があることが望ましい」。▲
付記:今の時代に万人共通の物語というのは到底無理な話ですが、因果応報の一つだけは頭に入れておこう。 数年前ある大学の理系の教授いわく 「最近の調査によると、フランスの高校生の3割が来世を信じているという。 実に嘆かわしい。 科学教育の充実がさらに必要である」。 禅学者柳田聖山も「輪廻思想は古代の遅れた宗教の名残りであるから、削除すべきだ」と言っています。 ばかな私がいうのもなんですが、物語レベルでもよいから、輪廻を信じるのがよい。
仏教(唯識)では意識を八種に分け、表層の意識として五識(五感)と六識(感受)があり、深層の意識は「七識(自我意識)」があり、さらに最も深い意識が「第八識」であり、この第八識に仏性が隠れているので「如来蔵識」と言われる。
浅い禅定から次第に最も深い禅定を実現し、第八識に至る。 これで悟りの条件がそろったことになる。 ここで「八識田中に一刀を下す」という機縁が生じたとき、これ大悟の時節きたる。 縁を待つべしと。
101才の方の詩 ・柳沢弘(東京) (令和4・サンケイ)
小学5年生の春のことT君と町へ行く途中、T君のお父さんのリヤカーに乗せてもらった。 着いた所が食肉処理場だった。 そこで豚たちの悲鳴を聞いた。 そのとき生涯、肉食はしないと決めた。 あの経験はよかった。 ぼく101才、無病無薬です。
一年後にまた投稿・ 柳沢弘(102才・令和5年)
今日はあちこちきれいにした。一人住まいも20年。 台所が気になる。 引き出しをきれいにした。 とても気持ちがよい。 百才の人生も反省という手入れをして、きれいに生きよう。▲
付記:驚きますね。肉食もせずに102才! 一人暮らし20年ですと。 常識をこえています。 反省という手入れをして、きれいに生きたいとおっしゃる。 一体どういう生き方をされた方? 詳しく知りたいものです。
かって仏弟子は肉食を避けています。今は栄養とか認知症予防とか知識が色々ありまして申し訳ありませんが、慚愧と感謝の心で頂きます。
食前の偈
「道業を成ぜんがためにこの食を受くべし」
風外和尚(16世紀・曹洞宗)
風外和尚は50才を過ぎて、突然寺を捨て乞食行に入ったが、ある日通行人に頼んで穴を掘ってもらい、その穴の中で手を胸に当てて立ったまま、示寂(じじゃく・死)されたそうです。行年86才。
人生相談(平成22・サンケイ新聞)
千葉県・50代女性の相談。「私は短大を出て結婚。会社に30年勤めました。 義母はなくなり義父と夫と穏やかに暮らしてきました。 今になって痛感することは自分の勉強不足です。 賢い人になりたい。 深く考える人になりたいと強く思います。 本を読んでも、いつも別の自分が、『足りない、足りない』といいます。 どうか自信の持てる賢い人になるヒントを教えて下さい」。
この直球の問いに答える人が作家・久田恵氏
「30年勤めて、家族と仲良く暮らす貴女は賢い人です。 学歴があり知識があっても、深く考えているわけではないことを、あなたは知っています。 世間には大したこともないけれど、もっともらしいことが多いです。 『足りない、足りない』という思いは、深い処から出ていると思います。 その向上心を持ち続けることが、❝賢い人❞に近づくことかもしれません」。
付記:この難しい相談に久田氏は「上から」ではなく、「知識があっても深いわけではないと知っている」「たりない、たりないという思いは深い処から出ている」と的確な指摘で励ましておられる。
近藤誠一・元文化庁長官(令和3)サンケイ新聞
「現代の問題は専門知のみでは片付かない。 必要なのは人文知である。 すなわち自然科学・社会科学・人文学・文化芸術の全ての叡智を総合して、『そもそも人間とはなにか』を深く洞察して解決策を出さねばならないと思う。」▲
*人文科学‥‥自然科学・社会科学に対して、哲学・歴史学・文学など人間文化を研究対象とする学問の総称。 人文学。 文化科学。
近藤誠一(平成28)
「今、世界をリードしてきた先進国に大衆の不満が渦巻いている。 そもそも民主主義の理念は「人間は合理的に行動する」ということが大前提となっているのである。 しかし現実には人間は常に理性的でもなく、不完全な生き物だ。 民主主義の下では人は多様な意見をもち、正義は複数ある。 多数決は合理的だが、少数派に不満が常に消えない。 自由は強者の論理になりやすい。 必要なのは、理念と人間性のギャップを意識することであり、社会をモデルに近づける努力である。 その努力はリーダーだけでなく、大衆にも求められる。」▲
付記:「民主主義は人間が常に合理的に行動することが前提」というのがミソ。 「多数決は合理的だが少数派の不満が常に残る」というのでこの世の不満は消えることがありません。
科学的解明がどうしても無理ではないかというテーマ
司馬遼太郎「人体を構成する60兆個の細胞は、常に新陳代謝している。 皮膚・筋肉・骨・脳・神経も代謝する。 人体の中にどれ一つ永遠に続くものはない。 しかるに不思議なことは、‘‘自分‘‘という一個の継続した主宰なるものが意識されているということである」。▲
脳科学者茂木健一郎
「脳は物質である。その物質から意識が生じるのは謎である」。▲
昭和の脳科学者・時実利彦
「脳そのものは合理的ではない。 人間は自分が思うほど合理的ではない」▲
付記:身近すぎて凡人が何とも思わないことでも、不思議でたまらない謎がある。

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こちら80代(昭和16年生れ)隠居の凡僧(臨済宗)。 小中高のころの成績はオール3と低レベルでしたが、宿世の縁で19才で禅書に出会いました。 禅書の内容は、その多くは修行者の苦闘と難関突破の物語です。 深く禅定に入って豁然と大悟する物語が痛快で、愚かなるわが身を忘れて出家を願い、28才縁あって僧侶となることができました。 私の若いころは明治・大正生まれの世代が現役で、まだ古風なお坊さんが健在でした。 そういう方々を慕う思いで、我がおさらいの記録です。 臨済宗の僧堂に5年余りいましたが、凡人の修行ではどうにもなりません。 しかしこの道にしがみついています。
(水野庄平・立命大卒)