あなたが使う言語を選んでください

「葉隠」は江戸時代に佐賀鍋島藩々士の山本常朝(じょうちょう)が口述し、同藩士である田代陣基が筆記した。 常に武士らしく鍛錬を志した山本常朝は、仏道に心を傾け42才で出家、曹洞宗の僧侶となった。  編著者の立花俊道師いわく「葉隠は曹洞宗の禅心をもって武士道を説いたものである」。   これは武士の面目が窺える内容です。  

 

  1,「禅と葉隠(はがくれ)武士道」   

著者・立花俊道「禅と葉隠れ武士道」昭和17年発行。

「葉隠」は江戸時代に佐賀鍋島藩々士の山本常朝(じょうちょう)が口述し、同藩士である田代陣基が筆記した。 常に武士らしく鍛錬を志した山本常朝は、仏道に心を傾け42才で出家、曹洞宗の僧侶となった。  編著者の立花俊道師いわく「葉隠は曹洞宗の禅心をもって武士道を説いたものである」。   これは武士の面目が窺える内容です。   

   

       本文

武士は武勇の士なり。 武士は武骨木訥なれど、しかも内には大いなる慈悲あるべきなり。  武士とて武勇のみでは忠節を尽くす能わず。 昔より剛勇一辺では家運続かず、上下滅亡の例多し。 たとい知恵勇気備わるも未だし。  されば運の強くするためには何するぞといえば、慈悲なり。 慈悲心こそが強運の元なり。  武士の職務は農工商を安らかせしめ、万物を化育するなり。 武士は主人のために命をかけ、次に父母・師友・妻子を護るべし。 人の内なる心をよくよく見れば、悪念が限りなし。 人間の念は偽り多し。 偽善の忠孝は真実にあらず。 故に仏神を信じ誓願を持つが肝心なり。 

 

  仏神の正体は不可思議なり

仏神の正体は不可思議なり。 知識分別の及ぶところにあらず。 されば疑念を捨て己れの非を知り、直ちに信に入って冥加(みょうが)を蒙(こうむ)るべし。 仏神を信じれば無量の功徳あり。 (冥加‥‥目にみえない功徳)

 諸行は無常なり。命は明日も知られず。然らば武士は命を仏神に預け、毎朝毎夕死を習うべし。  事にふれ折りにふれ、死んではみ死んではみ、して覚悟するなり。 これ最も大儀なれど、成せばなることなり。 日々気を改め、死ぬ死ぬと常時死ぬ身になるときは、これ武道に迷いなく心中に自由を得て、一生落ち度なく家職を果たす道なり。 平生 死を習い覚悟決定すれば、死するとき心安きなり。

 

  武士の禁物 

武士の禁物は大酒と自慢なり。 逼迫(ひっぱく)のときは人は工夫の念強く、過(あやま)ち少なし。武士に疵(きず)のつくこと一つあり。 富貴になりたがることなり。 窮乏なれば、疵は付かぬものなり。 幸せのときはかえって危し。 

武士の自慢や奢(おご)りは散々見苦しきなり。 一方で武辺は別筋なり。 武士たる者は武勇に大高慢をなし、死に物狂いの覚悟が肝要なり。 修行は大高慢にてなければ役に立たず。 我一人で藩を動かさんと掛からねば物にならざるなり。  一生中にご恩を報じること能(あた)わず。 されば七度も何度も生まれ来たって御家に生を受け、御家を守護し奉るべしと決定(けっじょう)すべし。

 

  修行の成就

 修行はここまで進めば成就せりと思うべからず。 決して成就ということはなきものなり。成就と思うところ、そのまま道に背くなり。 一生の間不足々々と思いて死すなり。 これを後に成就の人というなり。▲

 

【訳】

 武士は武勇を本分とする。 武士は武骨なれど、しかも胸の内には大いなる慈悲がなければならない。 武士といえども武勇だけで忠節を尽くすことは出来ない。 昔より剛勇一辺倒では家運が続かず、上下滅亡の例が多い。 たとい知恵があり勇気があるといえども、武士としては十分ではないのだ。  それでは運の強くするために、何がよいかといえば慈悲である。 慈悲の心こそが強運の根本である。  武士は内に慈悲を秘め、命がけで武士の勤めを果たさねばならぬ。 武士の勤めとは主君のために命をかけ、次に父母・師友・妻子を護ること。 さらに武士の職務は農工商を安らかせしめ、万物を守護教化することである。  

ところで人間の内面というものは、深く観察すると悪念が限りない。 人間の心は偽りが多い。 偽善の心では、裏表のない真実の忠孝はとても出来るものではない。 だから仏神を信じ誓願を持つことが肝要なのだ。 仏神の正体は不可思議である。 知識分別の及ぶところではない。 ゆえに疑いを捨て自分の未熟さをよく知って、直ちに信に入って冥加を蒙ることである。  仏神を信じれば無量の功徳があると首肯することだ。  

諸行は無常なり。命は明日も知られず。 然らば武士は命を仏神に預け、朝も夕も死を習うべし。 事にふれ折りにふれ、死んではみ死んではみ、して直心に覚悟するばかりである。 これは最も難しいことであるが、成せば出来ることである。

日々気を引き締め、死ぬ死ぬと常時死ぬ身になるときは、これ武道に迷いなく心中に自由を得て、一生落ち度なく家職を果たす道である。 常日ごろ死を習って覚悟が決まっておれば、死ぬときに心は乱れず安らかだ。 

 武士の禁物は大酒と自慢である。 人間というのは不幸のときは努力の念が強く起こり、失敗は少ないものだ。 だから武士が富貴になろうというのは間違いなのだ。 窮乏であることが過ちが少なく、疵は付かない。 幸せのときはどうしても油断ができて危い。 武士たるものが自慢げにしたり高慢な態度というのは実に見苦しい。  日々の言葉や態度等においては慢心は厳禁である。 しかし一方で武勇だけは別である。 武士たる者はこと武勇については大高慢をなし、死に物狂いの覚悟が肝要だ。  修行するには大いなる自信を持たなければ、イザというとき役に立たない。  自分一人で藩を背負う気概でなければ物にならない。

 一生中にご恩に報いることは出来るものではない。 だから七度も何度も生まれ来たって、御家に生を受け、御家を守護し奉るべしと堅く決心すべきである。修行はこれで成就したなどと思ってはならぬ。 決して修行に成就ということはない。  成就と思った瞬間に、道に外れてしまうのである。 一生の間まだまだ不足と思い続けて死すのみ。 これを後に成就の人という。▲

 付記:実に懇篤な訓えなり。 身も心も引き締めている武士の姿を、思い浮かべることができます。 いわく常に勇気の心を奮い起せ。 慈悲を忘れるな。 説く人も聞く人も真剣そのものです。  

 

   2,剣士   

  白井 亨(しらい とおる・1783年生まれ)

白井亨は江戸時代の剣士。  まじめで利発な彼は十五才のとき一刀流に入門。 白井の稽古は凄まじかった。 技量抜群により、二十歳の頃には師範格となった。  実力は抜群であったが、白井は剣の道に深く悩んでいた。 今の自分は強いが、し

かしこの強さは若い時だ。 剣の道というのは力や技を超えた、無敵の境地に至るというものではなかったのか。 何か大事なものが抜けているのではないかと、悶々と悩む日々が続いた。 そんな頃に寺田宗有という60代半ばの老先輩に会うことができた。 寺田に思い切って胸の思いを打ち明けた。 すると寺田は「私と立ち会ってみよう」と気軽にいう。 寺田の流儀は防具をつけずに、木刀で立ち会い真剣の気を練るという当時でも古風なやり方である。  白井は気合鋭く颯爽と構えた。 寺田の構えはどこかゆったりしている。  激しく迫る白井だが どうにも手が出ない。 

打ち込もうとすると、圧倒的な気合にはじき返されてしまう。 

手足の動きが自由に取れず「ま、まいりました」完敗である。 「先生の剣法は一体どういうものでしょうか」。  寺田「わが天真伝一刀流は心を磨くことが基本である。」   これだ! これこそ長年求めていたものだ。 白井は直ちに弟子入りを願った。  寺田宗有は東嶺禅師に参じて禅を修めた剣士という。

寺田先生「水垢離(みずごり)をせよ。坐禅せよ。邪念を払うべし」。 今や白井に迷いはなく、真冬といえども水を浴び坐禅をし、稽古稽古の日々が続いた。  しかし数年が経ったが進歩がない。 そんな中で激しい修行が続いたため、とうとう倒れてしまった。  そこで寺田先生から「白隠禅師のナンソの法」なる内観を教わった。 何事も熱心な白井は内観の効果も著しく、わづか二ヶ月ほどで回復した。 病いの体験をして悟得するものがあったが、しかし寺田先生の前に立つと、やはりまる

で歯が立たない。  白井は行き詰まり、寺田先生に泣きついた。  寺田「君は剣理は得ているが、心中にまだ迷いがある。 

幸いに徳本上人という優れた境涯の高徳がおられる。  この方についてみなさい。」 

徳本上人は念仏三昧によって煩悩を滅した清浄の行者という。 早速、白井は上人の所に通い念仏行に励んだ。  ある日の念仏の時である。 上人の澄み切った境涯が白井の無心とピタリと符合した。  その瞬間、上人の鉦(しょう・法具)を打ち続ける手の精妙の機を感得した。 

ついに寺田先生の示す『天真』の境涯に徹した!  この時、白井三十三歳。 寺田先生の下で五年余りが過ぎていた。

 

  白井亨が五十歳の頃のこと

当時は剣道が盛んで、江戸には道場も多く名剣士が大勢いた。 この頃に大石進という豪勇無双の剣客が、大胆にも九州から

江戸に道場破りにやってきた。  この大石という男は身長2メートル、怪力の持ち主で使う竹刀が普通より五十センチも長い。  図体が大きいばかりでなく才能があり、加えて研究熱心というから只者ではない。 その長い竹刀を自在に扱い、大石流という独自の流派を立てている。  年令は三十七。 これまでにない破格のスケールの使い手に、江戸中が大騒ぎである。 千葉周作、男谷精一郎といった名だたる達人も、大石の鋭い突きにてこずった。 この時ただ一人、白井亨が大石を下し、江戸の剣法の面目を保ったという。 白井亨の亡くなった年は天保の終わりころという。

  

  勝海舟 

勝海舟は若い頃に、老剣士白井亨を見て大いに刺激を受けたようです。 いわく「おれもかって白井亨という達人に教えを受けたことがある。 この人の剣法はいわば一種の神通力を具えていたよ。 彼が白刃をもって道場に立つや、凛然たるあり・神然たるあり。 犯すべからざるの神気、刀尖より迸(ほとばし)りて真に不可思議なものであった。 とても正面には立てなかった。 おれもぜひこの境地に達せんと懸命に修行したが、到底無理だったよ」。

   このように 英傑の勝海舟が感嘆しています。                             (大森曹玄著「剣と禅」春秋社)

 

    寺田宗有 (1745~1825)   

寺田宗有は高崎藩の武士。 身体は生れながらに強くたくましい。 ただ武辺だけでなく、神仏を崇め心広く大樹のような頼もしい人物。  十代のとき剣を江戸の中西道場で学んだが、後に18才頃に平常無敵流という古流に転じた。 この流派は面具は付けず、必殺の気迫で木刀の打ちこみを繰り返し、型を身に付けるというもの。(この流派の祖、山内一真は日蓮宗の僧侶)。  寺田は十二年の修行後、平常無敵流の免許皆伝を受け帰藩した。 高崎藩では役人として精勤。  高崎藩は寺田の学んだ古流を認めなかった。 数年後に再び中西道場への修行を命じたのである。 中西道場にあっても、寺田の実力は群を抜いていた。 また東嶺禅師に参禅して心機を練った。 東嶺禅師から「天真」の道号を授かっている。

(東嶺禅師は白隠禅師の第一の高足)。寺田は剛力があり何百キロの重さも平気で持ち上げた。 毎日の水浴びは八十になっても欠かすことはなかったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

武士