1,ブッダ(ゴータマ)
ブッダが各地で伝道された頃はいくつも教団があり、中でもジナ教は信者が多かった。 ある時ジナ教の弟子である長苦行がブッダと問答を交わした。 「長苦行よ、汝の師ナータプッタは悪行の影響力(業)について、いかなる見解をされるのか。」 「ゴータマよ、わが師は業とは言わず、身罰・語罰・意罰というように罰と言っておられます。」 「長苦行よ、その三種の罰のうち、どれが一番重い影響があるとしておられるか。」 「わが師ナータプッタは、身罰が最も重いとされています。 ゴータマはどのように説かれますか。」 「長苦行よ、余は罰とはいわず業という。 身業・口業・意業といい、意業を最も影響力が大きいとなす。」
ジナ教の教祖ナータプッタ
長苦行は帰って師に報告した。 教祖ナータプッタは「よく説明した。 意罰の力は弱く、身罰の力が強いのだ。」 (身体の影響が精神の影響力より大きいという意)。 その場にいた在家の信者ウパーリが「私がゴータマと議論して軽くあしらってやりましょう」と勇んだ。 他の弟子が「やめた方がいい。 ゴータマは幻術を使って議論が巧みであるからやめよ」と止めたが利発で自信のあるウパーリは訊かずにブッダを訪ねた。 ブッダは「ウパーリ居士よ、冷静をたもつなら話してよい。 ここに仮にもし不殺生の禁戒を守る者が、歩行中に知らずにたくさんの虫を殺したとする。 この場合師のナータプッタは如何なる結果になるといわれるか。」 「心あってしたことなら重罪であり、知らずにやったことは大した罪ではないと言います。」
「居士よ、熟慮して答えよ。汝は聞いたことがあるか。 昔仙人が怒りによって国々を野原に化したという物語を。」 「あります。 世尊よ。私は仏教に帰依します。私は話の最初で了解しましたが、お話を続けて頂きたいために黙っておりました。」
「居士よ。汝は聡明な資産家として有名人であるから世間は騒ぐであろう。 宗旨を替えることはよく考えて決めよ。」「世尊よ、よく考えて決めよとおっしゃる。この言葉により一層帰依します。 私が信者になれば、他教ならナーランダ中に吹聴することでしょう。」 「居士よ。汝はこれまでジナ教の人々に供養していた。 今後も彼らがきたときは供養せよ。」 「世尊よ。ジナ教の人にもこれまで通り供養せよと言われます。 この言葉により私はさらに深く三宝に帰依します。」
付記:仏教の特徴が窺える話です。
あるジナ教徒との問答
ブッダに対してあるジナ教徒いわく「ビンビサーラ王はゴータマよりもはるかに幸福な生活をしています。」 ブッダ「ビンビサーラ王は余よりも幸福であろうか。」 「ゴータマよ、これは失言でした。」 「ビンビサーラ王は身体を動かさず七日七夜、幸福であることが出来るであろうか。」 「いえ、できません。」 「余は身体を動かさず沈黙のまま七日七夜、完全に幸福であることが出来る。 ほんとうに幸福なのは王であろうか、余であろうか。」 「ゴータマよ、そう伺えば幸福なのは御身であります。」▲ 「仏教聖典」仏教聖典普及会・昭和34年版
付記:「七日七夜完全に幸福」という仏境涯。 不安も恐れも全て絶え最尊第一の般若智を得た日々は、大いなる喜びにあふれ
自ずと慈悲がわき出てくるでしょう。 禅定の深浅はただならぬ天地の開きがあるとのことです。
マルクス
「世界に対する認識は問題ではない。 世界を変えることが最も重要である。 物質が主位であり、意識精神は派生的なものである。」
付記:唯物主義は合理的で知的です。 科学的解明がこの世を便利にしました。 科学の知識だけで満足だという人もいるでしょう。 知性があり肩書名声がありお金もあれば、「わが人生に悔いなし」かもしれません。 でも善良なる人は心の奥にある宝物を信じよう。
坐禅儀 坐禅は安楽の法門なり。 もしこの意を得れば自然に、四大軽安・精神爽利・正念分明・法味資神にして、寂然として清楽ならん。
「世界一受けたい授業・日テレ」(2016)
「 最近、瞑想が注目されれている。 現代人はストレス・不安に脳が疲れている。 過去のこと・未来のこと・仕事・人間関係などと何かと心がスッキリしない。 そこで瞑想が(一部の人たちにとり)効果的な安らぎ法となる。 その集中するコツは『今、この場所・この時間・吐く息・吸う息・この自分に注目すること。 呼吸に意識を向けること 』。これが脳の活性化になる。」