あなたが使う言語を選んでください

悟りを開くことの出来る人物とは、やはり頭の切れる人が多い。 しかしそうでもない方が大悟されたという事例があります。  

唐代ですが、たいへん信仰心は篤いが凡庸の和尚がいました。

 この和尚は「愚かな自分には坐禅修行は難しい。 今生に

おいて悟りを開くことはとうてい無理なので、 毎日誦経の功徳を積んで、来世に開悟する縁を結びたい」 と決意を固めた。

それからは「俱胝・・仏母準提陀羅尼」という三行の短い陀羅尼を、日々誦し唱え続けた。 

長く熱心な精進ぶりは近隣にも知れ渡り、人々は彼を陀羅尼の名前をとって「俱胝和尚」と呼んだ。

そこへ行脚中の老いた尼さんが訪れた。 この人は実際尼という修行を尽くした大悟の人物。 容赦がなくこわいところが

ある。 なにも知らない俱胝和尚は「どうぞお休みください」と喜んで迎えた。   

すると「お前さんも僧ならば悟道の一句を言ってみよ。 もし適切なことが言えたなら休ましてもらうよ。」とだしぬけに高飛

車にいう。  これには俱胝和尚はただ圧倒されるばかりで言葉が出ない。 

すると「話にならない」と尼さんはさっさと立ち去ってしまった。 なんとも屈辱的であり、俱胝和尚は自分の不甲斐なさに

泣いた。  ああ、私は間違っていた!  「行脚に出て正師に参じよう! 一からやり直しだ」と悲壮の決心をした。  

するとその夜の夢に山神さまのお告げがあった。 「俱胝和尚よ、旅に出ることはない。 近いうちにに生きた菩薩さまが

来て下さる」。 そんな頃に行脚の禅僧が立ち寄った。 名は天龍和尚という。 

俱胝和尚は大喜びして迎え、老尼との一件を語った。 「一体私の過ちとはなんでしょうか」。

すると天龍和尚、黙って指一本を立てて見せた。 この瞬間に俱胝和尚は豁然大悟した!  長く続いた純心の誦経で

ある。  来世を待たず悲願成就となりました。   それからの俱胝和尚は快活な日々となり、人から何か問われると

常にただ指一本を立てた。

俱胝和尚が臨終のときは、「天龍和尚より受け継いだ一指頭の禅は、使っても使っても使いきれない宝だ。受用不尽!」と

天龍和尚への感謝の言葉を残して示寂された。

**俱胝和尚のことは禅の特徴がよく表れたものとして、後の禅門でよく取り上げられています。  必ずしも坐禅だけに

あらず、肝心なのは熱心に打ち込むかが問われます。  老尼の冷たい仕打ちは、実は余計な雑念を切り払い、悟りを受け

入れるのための素地になりました。 そこへ天龍和尚のただ一指を立てることで、見性につながりました。

「わずか三行の呪を唱えて、その名を千載(千年)に残した」と評されています。  

**見性‥‥けんしょう。悟りのこと。自分の本性を徹見すること。