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  8,仏教は因果・因縁を説き、さらに第一義として「空」を説く 

  涅槃経 

「如来の秘密蔵は、因果・転生のみにあらず。一切空に達す。 一切空に達する故に常法顕わる。 空に達すれば空を離れる」。▲   (常法とは不死の法門のこと)

付記:真実の空の境地に至れば、❝常法❞が現れる。  常法は不滅の本心。

 付記:空を理解するにはどうしても「悟り」の体験が必要ですが、こればかりは知識だけでは無理なようです。 心意識を一点に集中する作業が必須ですが、「石の上にも三年式」の修行は現代ではもう無理か?  凡人は仏祖の大悟の機縁にふれて多少とも窺がうしかありません。 たとえば馬祖道一(ばそ・どういつ)禅師は、弟子を悟らせる名人として第一人者という。

  

  馬祖道一禅師(中国・唐)

唐時代は中国仏教の最盛期で、徳の高い悟った方々が輩出しました。 大禅匠の馬祖(ばそ)禅師に、修行僧の法常(ほうじょう)が質問した。  法常問う「如何なるかこれ仏」。  馬祖答えていわく「即心即仏!」。  法常言下に大悟した。 後に法常は大梅山に住したので、大梅法常禅師といわれる。

付記:大宗師と修行僧の双方が優れたもの同士の出会いともなれば、一問一答の下に大悟の受け渡しが完了してしまうようです。

 

  俱胝(ぐてい)和尚(唐代)

悟りを開くことの出来る人物とは、やはり頭の切れる人が多い。 しかしそうでもない方が大悟されたという事例があります。  唐代の人でたいへん信仰心は篤いが、凡庸の和尚がいました。 この和尚が思うには「愚かな自分には坐禅修行は難しい。  今生において悟りを開くことはとうてい無理なので、 毎日誦経の功徳を積んで、来世に開悟する縁を結びたい」と決意を固めた。  それからは「俱胝‥‥仏母準提陀羅尼」という三行の短い陀羅尼を、日々誦し唱え続けた。 長く熱心な精進ぶりは近隣にも知れ渡り、人々は彼を陀羅尼の名前をとって「俱胝和尚」と呼んだ。  ある日、行脚中の老尼が訪れた。 この方は実際尼という修行のでき上った長老であり、 容赦がなくこわいところがある。  なにも知らない俱胝和尚は「どうぞお休みください」 と喜んで迎えた。   すると「お前さんも僧ならば悟道の一句を言ってみよ。 もし適切なことが言えたなら休ましてもらうよ。」といきなり高飛車にきた。  これには俱胝和尚はただ圧倒されるばかりで言葉が出ない。 

すると「話にならん」と尼さんはさっと立ち去ってしまった。  なんとも屈辱的である。  俱胝和尚は自分の余りの不甲斐なさに思わず泣いた。   ああ、私は間違っていた!  「一から出直しだ。 行脚に出て正師に参じよう!」と悲壮の決心をした。  するとその夜に夢に山神さまのお告げがあった。  「俱胝和尚よ、旅に出ることはない。 近いうちにに生きた菩薩さまが来て下さる」。    そんなある日、行脚の禅僧が立ち寄った。 名は天龍和尚という。 

俱胝和尚は喜んで迎え、老尼との一件を語った。  俱胝「一体私の過ちとはなんでしょうか」。すると天龍和尚、黙って指一本を立てて見せた。 この瞬間に俱胝和尚は豁然大悟した! なんと来世を待たず悲願を成し遂げてしまった。  長年の純真

な誦経は決して無駄ではなかった。  それからは俱胝和尚は快活な日々となり人から何か問われると、常にただ指一本を立てた。  俱胝和尚が臨終のときは、「天龍和尚より受け継いだ一指頭の禅は、使っても使っても使いきれない宝だ。 受用不尽!」と余裕の言葉を残して示寂(じじゃく・死去)された。

付記:俱胝和尚の至純熱心の修行については禅の特徴がよく表れたものとして、後世の禅界でよく取り上げられています。 悟りの縁は必ず坐禅だけにあるというわけではないという。   老尼の冷たい仕打ちは、実は余計な妄念を切り払い、悟りを受け入れるのための素地になりました。  おかげで天龍和尚のわずかの所作で、見性できました。   「俱胝和尚はたった三行の呪を唱えて、その名を千載(千年)に残した」と高く評価されています。  

 付記:見性‥‥けんしょう。悟りのこと。自分の本性を徹見すること。

 

  元暁(げんきょう)和尚(唐)

元暁和尚は、長年にわたって禅定を修め経典を学んだが、一切空の真意をどうしても悟ることが出来なかった。  そこでこのままでは埒があかない、明眼の師につくしかないと決意し行脚に出た。   山を越え河を渡り、飲食もままならない命がけの旅が続いた。 どれほどの日数がたったのかわからない。 目指す老禅匠の地はまだ遠い。 その日も暮れて塚で休むことにした。 腹はへり、喉はカラカラに乾いている。 暗い中でふと手にふれたのは、丸い器である。 何と水が入っている!   「南無観世音菩薩!」  水を飲みほしたが、実に甘美でおいしく体中にしみ通った。「これぞ甘露水、ありがたや」。 気力は回復し、その夜はグッスリ眠ることができた。  翌朝、見るとドクロがある。 昨夜に飲んだ甘露水とはこれか? ゲエッ! 思わず悪寒がして吐こうとした瞬間に、忽然と悟った!  邪法の空見が打破された。   「なんと広く闊達なる境地! 三界は唯心!  自分は空の暗窟に堕ちていたが、今や自在なる世界に跳出できた。 心生ずれば種々の法生じ、心滅すれば髑髏(どくろ)不二なり」。  こうして大安楽の境地を得た元暁は直ちに自分の寺に帰り、円頓の教理を弘めたという。    禅書`‘林間録‘‘より▲

付記:いつの時代にも天才はいます。 現在もわずかに禅書を読み、少し坐っただけで、 禅旨に通底する方がいるかもしれません。  ただし野狐禅(やこぜん)というニセも多いという。

 

 

  徳本上人(とくほんしょうにん)[1758~1818]

江戸時代。徳本上人は浄土宗の高徳。 和歌山県農家の出身。 若い頃から念仏に熱心で二六才で出家。 庵を結んで一人で念仏に励んだ。 戸を釘付けにし外界を断って打ち込んだりした。 普段の食事は粉にした豆。 米麦はおろか味噌・塩も口にしないというのですから、その粗食は徹底しています。  捨て身のこの念仏行者は、ひとたび庵から出れば念仏の喜びを、人々に伝えた。 各地で念仏を広め、その名は次第に広く、知れわたった。 むつかしい理屈はなく「念仏すれば必ず救われる」。 

正味の念仏さえ味得すれば、余るほど黄金を手にするようなもの。  念仏を唱えるだけで、あとは家業に精を出すだけだという。 学問や文芸風雅の道は目に入らなかった。  人々は純真の念仏に歓喜し、生きる力を得ることができた。 和歌山のお寺で七日間の勤行の際には、阿波や淡路島からも人々が参集し、日々の参詣者が約二万人だった。 三百艘ほどの船が港を埋め尽くしたそうである。 やはり人間は尊い人格のオーラに浴したい。    大法輪誌(昭和)寺内大吉師(浄土宗)▲

         

  宇宙ロケット

盛永宗興和尚は昭和の老師で、花園大学の学長をされた話の名手です。 この方が微調整の話をされた。  「宇宙ロケットが、月に到達することが出来たのは何故か。  それは飛行軌道の微調整が出来たからである。  ただ的に向かって真っすぐに進むだけでは、何か異変があれば外れてしまう。  想定外の軌道の狂いにも修正を可能にしたのが、最先端の科学技術である。  禅の修行もただ熱心に修行に打ち込むだけでは、真の目的から外れることがある。 厳正なる禅匠の鞭撻指南が不可欠なのだ。」▲

 

 漁師の体験(盛永宗興老師の講話より)

ある漁師が森繫久彌氏(昭和の名優)に語ったという。  さる漁師「わしが16才頃のこと。 漁師になって日がまだ浅い時に、沖合で遭難したことがある。  漁船が難破し漁師は皆な海に投げ出されたが、わしだけは木片につかんで漂っていて、幸い通りがかった汽船に救助された。   帰路の海上で4,5時間たったがどうにも胸騒ぎがするので、船長にどうか今から遭難場所に戻ってほしいと頼み込んだ。   船長は何を今ごろダメだと拒否した。 それでも必死に願って拝みたおし、船長はついに『お前には負けたよ!』と難破の場所に引き返してくれた。   そこには救助ボートに乗った5名ほどの漁師仲間がいて、無事に救助できたのである。  わしはそれからは、神仏を信じるようになったよ。」   この話に森繫久彌氏は非常に感じ入ったそうである。▲

 

  熱中

宗教の特徴には熱中性と陶酔性があるという。  宗教の熱中は警戒されるところでもあります。   中でも禅は「内なる自分の本性」を求める道ですが、とかく自分中心の狭い世界にはまりやすい。  禅語の表現は天空を飛ぶかのような活発さに満ちているので、いったん禅語の魅力を知ると坐禅の経験もないインテリ氏が禅を論じたりします。  昭和の古川尭道老師は「禅については知識があれば、それらしいことが言えるものだが、まあしかし確かなものかどうかはすぐ分かるものだ」と言っておられます。(辻双明著「禅の道を辿りきて」春秋社)

付記:古川尭道老師‥‥円覚寺(鎌倉)の老師。 坐禅に徹した方。 寡黙ながらわずかな言葉でよく修行者を導いた。

禅の指導者は「内面に向かって熱心なれ、勇猛なれ」と叱咤しますが、同時に修行者が異端にならないように注意深く見守る必要があります。 熱狂を管理するというところです。  死の問題に取り組むのですから、熱狂はときに狂気のようです。

多少なり坐禅をやってみると、だれでも不思議な思いや喜びがあったりします。  本人にとっては努力の成果ですが、初めはほとんど幻影的なものです。   そこを老師がピシャリと指摘して剥ぎ取り、向上に追い立てます。